43(他者存在の奇蹟 / 僕の不完全の許容)

サルコジ大統領夫人というそうで、国民の人気は低くなったと検索して書いてあった。




2015/07/03(Fried day・揚げ物の日) みなさんで油揚げを食べましょう



 男心の進展はなかった。というか、心は全く感じなかった。硬直していた。けれど進んだところもあった。



 女性が、他の人の悪口を言った。僕は、コイツ気に食わないな、僕の嫌いなタイプだと思って、排除の心が生まれた。その後ずっとこの女嫌だなと思っていた。



 昼食後、その女性を後ろから見ていた。その女性は存在していた。しっかりとそこにあった。


そこで展開が起きた。例え僕がこの女、嫌いだなと思っても、その女性は存在し続ける。僕が排除の心を起こしても、その女性が悪口を言ったことに対して僕の言い分は正当化されない。女性は悪口を言った。その責はその女性に帰する。その女性が源(みなもと)だ。



 僕が嫌いでも、その女性の発言を嫌う理由にはならない。その女性の発言。嫌うのは僕の器量が悪いから。僕に含むキャパシティがないからだけのことに過ぎない。結局、その女性は全く悪くない。僕が嫌っただけの話。



 その女性は存在している。

その大きさを他の人にも適用した。他の人も存在している。


 僕は、掃除後、この作業所にいるのは僕が障がい者だからだというのを強く意識した。他の人も障がいを持っている。障害を持つ者同士が集まっている。


 今思ったけれど、だから他の人を排除するべきではない。また、自分に完ぺきを求めるべきではない。僕の障がいゆえの不完全さ、偏った存在をゆるく、柔らかく許容すべきだ。



 僕に他者の不完全さをゆるく許容する心があればなあ。


それには自分を認めることから始めるしかないのかもしれない。僕は完ぺきになって他の人と関われると思ってきたけれど、そうではなく、


僕の不完全ゆえに、不完全な他者と関わるというスタンスが必要なのかもしれない。



 今日の展開は、すべて他者の存在するという、その凄いミラクルから、奇蹟からすべて始まったと思う。