吉本隆明 芸術言語論 (齧りの僕の曲解)


2015/06/06(Sat)


「 吉本隆明 芸術言語論 (齧りの僕の曲解)」


・ 吉本思想をリレーする試み 
▷下 芸術言語論
『機能主義否定 沈黙こそ価値』、
高橋秀明=詩人、
北海道新聞 夕刊 5面 文化 2015(平成27年)/05/28(木曜日)




引用:

・2008年7月19日、昭和女子大学人見記念講堂、吉本氏83歳講演の演題「芸術言語論―沈黙から芸術まで」。

・その一端はNHKエンタープライズ発売DVD『吉本隆明 語る』で見られる。

・内容なら、『日本語のゆくえ』(光文社知恵の森文庫)で語られることとほぼ重なる。

・講演のテキスト化は不可欠、講演記録は、宮下和夫氏が編集を進めている『吉本隆明<未収録>講演集』(筑摩書房)の最終配本巻に収録される予定と聞いている、その刊行が切に待たれる、


ここでは、私が使用した私家版テキストを用いて、概要を紹介。


~機能主義的な言語観は、まず言語を記号として把握する。言語とはそこで、人間同士の細やかで安定したコミュニケーションを成立させるための、優れて効果的な伝達記号にほかならないとみなされる。これは一見ごく穏当な言語観であると思われるかもしれないが、吉本氏の言語観は、真っ向からそれと異なるものなのである。~




芸術言語論」の講演のために吉本氏が用意した「構成表」のメモ

~言語の本体は樹木で、比喩すれば幹と根、そして枝に分れ、葉・花・実となったものがコミュニケーションのため用いられたときの言語である。~

~「言語の本当に幹と根になるものは沈黙なんだと、僕は考えたわけです」 「枝葉から出てくるものがコミュニケーション言語であって、決して言語の幹ではない。幹とか根ではない。つまり言語のほんとに重要なところではない。~




吉本氏「沈黙の有意味性について」、1960年代後半の論文で断言されていた、

~「現にここにあるという人間の存在の仕方が有意味的であるならば、<沈黙>の言語的な意味も有意味的である。もちろん<発語>も<沈黙>とおなじところから根源的に発祥している。そうだとすれば<発語>と<沈黙>とは本来的におなじことではないのか。もちろんおなじことである」~


~この場合、言語は、極限まで縮小すれば沈黙する人間の精神構造と等価であり、拡大すれば、「普遍芸術」と吉本氏が呼ぶあらゆる分野の芸術、つまり人間が創り上げる一切の技芸・学術と等価であると言ってよい。~


(引用終わり:引用者文章を簡略化し、呼び方も吉本氏と変えた。正確な内容のためには、記事にあたってください)


引用者の僕、kurage0147130は、こう理解した。

 沈黙という言語からコミュニケーション言語ができたのなら、沈黙する人間の思考、感じ方は大いに尊重されるべきだ。何もしゃべらないからと言って軽んじられるわけにはいかない。民主主義と言って、多数意見が採られるけれど、反対票の重み、物を言わず、心に反対の意を持つ人間の考えは尊重されるべきだ。

 ここから選挙を思うに、75%の得票率を得られれば政治は変えられると思う。捨てられる票は、反対意見の無意味さや、沈黙の自分の意志の無力さから起こしている行動と思う。

沈黙を大きな力、言語活動の幹・根と捉えれば、僕たちにもっと大きな力が使えるようになると思う。機能主義的な、しゃべることを尊重する権力を握る人間と勝負できると思う。(お前はバカかと思うなら思ってください)