25(ダメん玉(眼)4)


2015/05/29(Sat)


25(ダメん玉(眼)4)


NHKテレビテキスト 荘子玄侑宗久、2015/05


 この本、教科書も読んだけれど、テレビ4回目を見て思った。

 自分という視点から見ているのを、荘子は覆す。

 物事は自分というフィルターを介さずには理解できない。


 でも、自由があるところは、
自分というフィルターではなく、自分というちっぽけで、限定されて、縛られた小さい見方を離れて、
他者の視点、自分の見方をずらす、外から見た見方(自分から離れることはできないので、外部という見方を導入する)、
自分は小さい限られた一部分の見方だという前提に立ってのそれを外す・超える・離れた・後ろから大きく見るような、

自分を笑い飛ばすような・自分の小さなしがみつきを突き放し・自分の関わりを全てかっこに入れる―下に小さく自分を見てしまう外部の見方を主に持ってくる、自分のすべての頑張りやこだわり・癖を離したところに自由はあるのだろう。

 自分を常に笑い飛ばしていられれば、明るく照らされるのではないかと思った。

次回のテキストは、ソポクレス「オイディプス王」で、父殺しも入ってくる。精神的にどうかかわるか。島リン(男がこう呼ぶのは本人は認めないだろうけれど、僕はこう呼びたい)が先生です。(島田雅彦