2015/1/20(Tue)



 嫌われる勇気、3回目の赤ボールペンを握っての読みが終わった。自分にとって大事なところを、本の目次のところにページ数と言葉を書き写した。今回の読みでも楽しかった。

 ノートにまとめられればいいのかもしれないけれど、読むだけでもいいと思う。僕はこの本に書いてある人間としての基本がまったくできていないので、アドラーはノーマークだったので、かなりインパクトを受けた。この本を基本にやっていこうと思う。


嫌われる勇気、自分のことを存在のレベルで考えるという話しは面白かった。
(p208ここに存在しているだけで、価値がある)

 この存在の話の、何かの行為をして自分の実感を感じるのではなく、ただ存在しているだけで人間はかけがえのない価値があるという基本ラインを作っておくと、何かをするというのはそれだけでゲインだし、何もしなくても価値を認められていいのではないのかと思った。

昨日書いた、何もしない日を否定せず、何もしなくても○印を付けるという発想は、この辺を読んだから出てきたのだと思う。何かちょっとでもやったら◎にする。何もしなくても○として肯定していく、×印という見方をせず、失敗、後退、減点、マイナスとしてとらえることを拒否する発想になっていった。こういう見方をはびこらせても全くメリットはない、僕の足を引っ張るだけだ。



なんだこれくしょんきゃりーぱみゅぱみゅで一番好きなのは最後の曲。この曲は飽きが来ない。



昨日書いたのは、存在価値を認めることで、何もしなくてもOKを与えるという。そこからちょっとでもはみ出せば◎にする。多くやったり、量が多かったり、高いことを良しとせず、ゼロを基準にするという・嫌われる勇気の発想をそのまま頂いた。

ゼロ自体を評価し、そこから加点する。その時、高いレベルを目指さず、あくまでゼロ目線を維持する。何も起きない毎日も肯定していく。少し動けば◎。自分に積極評価を与える方式にした。プール、リコーダー、料理、作業所も加えた。もともとつくったのは、手芸と語学。それにこれら4つを加えた。
 




 母が麻雀ゲームをやったらいいのではないかと提案して、ソフトが来るまで教習所ゲームをやった。僕はこのゲームを最初にやって全く操作ができなくて投げ出していた。出来なさ加減にお手上げになった。挫折していた。

 今回僕は、操作のボタンを覚えて臨んだので、少しは動いた。交通法規遵守は無理でも動かせた。それを見ていた父はやってみたいといった。父はゲームはじめてで、やってみて全く感触がなくお手上げだった。父はそれきりやる気がなくなりもういいという態度だった。父は環境を自力で変えるということをやったことがなく、他のことでは不満を言い、このゲームで自分にできないと思うと拒否するらしかった。父は打開力ゼロだ。

 母にきょう麻雀ソフトが届き、操作も覚えないうちにやりだした。前のめりにやり始めた。僕が操作を読んだら言っても聞く耳を持たず、のめりこんだ。全くお手上げで全部負けた。母は打ちのめされていた。勝とうと思ったり、うまくいくことを期待したらしかった。ゲームソフトに対しては、自分の実力はゼロで、そこから訓練して少しずつ上がっていくというのがわかっていないらしかった。父母は僕と同じ行動パターンだった。

 父母は人間としては最低レベルだ。僕が最低レベルで苦しんでいるのは、この家族の一員だからだなと思った。

父の弁護をすれば、父は雪かきをしている。母の弁護をすれば、母は料理を作っている。父母のすべてがゼロというわけではない。

でも、ぼくがこれだけ、48歳まで苦しんだのは、この家族ありきだなとは思った。家族が悪いと言っているのではない。家族のスペックが見劣りし、最低ラインだということがよくわかった。

父母の僕に垂れる批判や説教、示唆は参考にならない。僕は自分に従った方が良いと思う。父母の判断は間違っている可能性が高く、将来的に参考になる意見を出すとは思われない。

 父母は自信のなさを克服していない。僕と同じレベル。人間としてのステップも僕と同レベルで最低ライン。