素顔


2015/1/9(Fri)


・嫌われる勇気、の2回目の赤ボールペンで線を引きながらの読みでp96まできました。


 本を読んで思ったのは、僕は、傷つくのを恐れて他者の中にいることを避け自分の殻の中に逃げ込んだ、気の小ささがすべての最初かなと思う。傷つくのをずっと避けてきた。


 そして、本にあるように劣等コンプレックスを殻の中で使用している。もしも首がつぶれていなければ活躍できる。もしも抑圧していなければ他者の中で普通に過ごせると。女とも付き合えると。僕は首がつぶれていないとか、抑圧しなければすごいんだと言い訳を言って、自分の優越性に浸り、十全感・子供のような万能感に逃げ込んだ。自分の可能性ばかり誇張し、夢の中に逃げ、すごいんだと浸り切り、頭の中の妄想の世界の住人になった。


 本当は、劣っているということで、父母との子供時代からの関係性を変えようとしていない。父母に従属する関係性を維持し、不自由を享受し、父母の元という形に進んで隷属し続けた。僕が自分の形を変えないということは、父母との関係性に肥料をやり続け、自分を甘やかし続けることだ。変えないことで父母との関係を強化し続けたきた。


 そして今日読んだところ、人はみな同じ平らな場所にいて、縦の軸のない世界に住んでいると。前を進む人も後ろを進む人もいるけれど、自分の前を目指して、自分の昨日よりはちょっとだけ進もうと優越性の追求をする存在だと。こういう世界観を持つために僕の毎日は変更し続ける必要がある。


 今日作業所で女性の話を聞いていて、その人は横に対して語り続けている。僕だと、演歌よりクラシックがいいよねとなる。その女性は、演歌も聞くしクラシックも聞く。あの曲とあの曲が好きみたいなニュアンスの話し方をするし、そういう世界観を持つ人だ。そのどこまでも横に語り続けるスタイルにはすごいと思った。そういう世界観に劣等コンプレックス(劣等感よりも進んだ、だから僕はダメなんだ、というニュアンス)を持ったけれど、僕もスタイルを変えていきたい。