父の子供という枠から飛び出せ

2014/12/19(Fri) 金曜日


・ 嫌われる勇気-自己啓発の源流「アドラー」の教え、岸見一郎 古賀史健、ダイヤモンド社、2013



P35まで読んだ。


p27あたりに、ひきこもりの人の例が出ていて、不安だから外に出られないのではなく、外に出たくないから、不安という感情を作っていると。これを目的論と呼ぶらしい。


p31あたり、ひきこもっていれば、ほかの人と接触しなくていいし、親が甘やかしてくれるし、ただの凡人の一人の人として社会に出なくていいと。これがひきこもる理由だと。


 この考え方は、ラジカルで、やはりこういう考え方をした人が出てきていたのだなという、人間の考えの逆を行くような見方をした人がいたことがわかった。こういう過激な見方は好きです。ついていけるかわからないけれど。




 僕を例にとるなら、作業所でほかの人に交わらないのは、僕が失調するというのもある。もう一つ、僕が交わらないのは、そうすれば僕は特別な存在でいられる。凡庸で何の変哲もない、ただのおとこという末端の存在という現実から目を背けて、殻に閉じこもることができる。


 父は、たぶん親にかまってもらえなかった。優秀であることで振り向いてもらおうとした。父は優秀ではないという事実を欺いて、嘘の人間になった。僕に対してその父は、僕が特別であることを望んだ。僕はそういう父と暮らして、父の自分は特別だという見方を背負い込もうとした。僕にも無理があって、そんな重荷は背負えない。

スタンプ押しをがんばったり、作業をがんばるのは特別な存在であろうとするから。父の期待に応えようとする。特別な存在であることで、父という存在を必要とする。父の息子という枠にすがろうとする。自分の枠を保持し、父という枠も保持する。
これが僕の目的。



 父を必要なくし、自分の特別さを消すためには、ただの男として暮らすこと。
そして、父によって、ダメなやつ無能でどうでもいいやつという、僕に与えられた枠を僕は保持しようとする。

その枠を取り払うには、凡庸な男として自分で新たな分野を開拓し、社会的に認められた存在として活動していくことだ。それが、お医者さんが言った父を超えていないという、僕の枠を取り払い、父から与えられた枠を捨てることにつながるのだと思う。

僕は手芸で立ち上がらなくてはならない。
凡庸だけれど証明しなければならない。
という、ストーリーを捏造した。