執着的距離感、執着的取組み。

2014/11/13(Thu) 木曜日:お休み

 図書館へ40分読書に行った。

 昨日は作業所で、罰の悪い子どもみたいに、居心地が悪かった。最近この低調な感じで過ごしている。



 昨日思ったのは、執着する必要はないのではないのかというもの。父はものすごい執着の持ち主だ。執着性格かもしれない。僕もそれを受け継いだ。執着が必要だと思っている。執着が物事との距離感の基になっている。

 でも、そんなに執着は必要ないのではないのかと、疑問を持ち始めた。
夕刊の連載、吉田類のコラムで、

昔の知人と会ったけれど、向こうは覚えていてこっちは覚えていなかった。覚えていないのは、いまは大事ではなくなったからだ、というようなニュアンスのことが書いてあった。このあっさり感は、父と僕の距離感と違い、僕が執着的な物事との関わり方を見直すのに必要ではないのかと思った。


 僕には執着的な距離感が染みついているし、それしか知らないのかもしれない。今となっては僕の病気だ。それに、父と同じナルシストの部分が僕にもあるように本を読んで感じた。

本の中に(加藤諦三)、教授が本を出して世に認められようとするのだけれど、誉められてすごいと言われたい。

 自分でコツコツ書いてきて、その結果の出版ではなく、絶賛されたいがための出版になっていしまっている。

僕のシャツ作りも誉められたいからで、結果が欲しいだけで、途中の経過や、シャツ作りの不思議のためではなくなっている。完成という二文字が欲しいだけになっている。

僕に必要なのは、プロセスを徹底的に味わうことだと思う。上手くいこうが、失敗しようが、感触を味わい続ける連続の中にあると思う。