花火をぶちあげた。選択と責任。

2014/10/28(Tue) 火曜日

 僕は最近病気がだいぶ良くなってきている。今日は、プールへ行き、図書館に寄り、おとなの基礎英語を見て、アメリカブログを書き、プレキソ英語とセサミストリートアメリカを見た。はてなのブログも書いた。

 けれど、これは、病気がよくなるという期待、広がる未来に対しての行動。昨日作業所へ行くとき思ったのは、僕の未来は老いが待っている。いずれ老いて死が訪れる。この苦しく暗く塞ぐのが未来に待っている。未来は暗く厳しく冷たく重い。それが僕の現実だ。この現実に対して、今日のように広がりを求める行動は、ズレがある。



 昨日作業所で、午前メンバーだった年配の方が辞めることが発表された。この作業所での公式の発表だった。僕はその方に女性に、声をかけてもらい、だいぶ気持ちがなごんでいたことがあった。僕はよくしてもらった。けれどその方は終えることが決定された。

僕のこの作業所での活動も限りがある。手芸をする時間が与えられている。僕は手芸を求めてこの作業所に来た。限りある、機会のある現在、僕は厳しく自分にあたらないといけないと思う。

その方の選択の、後の現在、僕も自分で選んだこの作業所での道を厳しく問わないと嘘になる。
明るい未来を夢見て、夢見に生きることは許されない。自分の人生を生きないと嘘つきになる。

僕は自分に甘いから、今日のこの話も反故(ほご)になるかもしれない。でも、自分の人生を生きないとダメだ。

 可能性の追求の毎日は許されない。限りある選択を、選んで手芸をしている毎日を、さらに自分で選びとっていく必要がある。明るい未来は必要ない。限りある選択に責任を持つべきだと思う。

花火をぶち上げたところでこの話は終わりです。
今日はハートネットのEテレ20:00からのみとりを見た。