「共に創る者」(理念的・まだ頭の中のもの)
坂東玉三郎の藤娘を見ていた。坂東玉三郎は演者として、演奏者はバックを受け持ち、観客は見るものとして舞台を創っている。DVDを見ている僕は、その場に参加はしていないけれど、DVDを見るものとして、日本舞踊に参加している。これら全体で演目を創っている。
これらの者たちは、同時に現場を創る者で、同時性において、共同者になる。共同で同時に舞台を創っている。全員が当事者で参加者だ。
僕は人間集団において、集団より一段低い、ぶら下がったものとして長く存在してきた。
僕は集団を創る一(いち)参加者として登場しようとしている。
僕に欠けているのは、集団の中の存在としての同時性意識(現在を生きる、時間を同じく共有する現場の体験)、当事者意識(参加者意識)だと思う。
これらが、現実のものとしてたくさん体験できれば、僕は生きてくると思う。
2014/8/21(Thu)
(↓ここは面白くない部分)
今日は調子が悪かった。
作業所では、全部僕を排除したいみたいだった。最初は押されていたけれど、最後の方は、俺は男だ作戦で押し返そうとした。この自分の調子が悪いというのは、悲しい。一方的に不利になる。防戦一方が最初の流れ。今日も押し返そうとしてみたけれど、勝手に調子が少し上向いただけ。
だいたい僕の不利は、全部敵みたいになる。こちらのスタンスは全面戦争みたいになる。そんな大袈裟ではないかもしれないけれど。僕という存在の悲しさみたいなのを含んでいる。
(↑ここまで面白くない)
★ (本題)
今日は革わっぱの編むのが苦手な人がいて、僕はそんなのできるよ、と思った。
ちょっと思ったのは、その人は取り組んでいる。上手くなろうとしている。
僕は高みに立って見下しただけ。取り組んでいない。できたと思って、途中でストップしている。
そこで僕もキーカバーの縫いの最後の方の手順を全面見直しした。こうやったらどうだろう、ああやったらどうだろうと、いろいろ試して、ダメだと思われるのも試した。できる範囲のいろいろな針の出し方を試した。
100de名著 ファーブル昆虫記のように、方法をいろいろ試した。僕が正解だと思っていたやり方も一つの方法で、最後の糸の出し方を逆にもやってみた。調子が不利だった割には楽しかった。
僕も取り組んだ。
高みに立つのは死んでいる。できるというのは嘘だ。常に取り組み続けるのが僕にとって正しく、いつも途中の段階だ。常に途中の段階から完成に向けて取り組む、取り組む姿勢が僕にとって正しい。
だから手芸が下手でも、取り組んでいるなら、高みから見下ろすのは間違っている。すべての人間は途中の者で、取り組む者だ。
僕は完成した存在になろうとしているけれど、途中の中途半端さを引き受けて、中途半端なものとして存在したほうがいい。