この日記を読み返して、こいつなんだろうなと思った。他人にはしょうもない奴に映るだろう。自分で読んでいても、変な文体を使って、変なことを書いている。



2014/6/21(Sat)


今日は休みで、ツィメルマン(ツィマーマン)の4バラッド ショパン の1曲目を聞いた。このcdの好きなところは、小さい音がとても大事にされていて、盛り上がるところも頑張るけれど、小さい音の表情がくっきりしていて、小さい音を聞くことで僕の心が休まるところがある。小さい音のニュアンスがあり、音が伸びている余韻がある。

 僕はこの人のyoutubeの映像を見て、弾き方に一目ぼれした。よく聞かないでこれを即決で買った。


 庄司紗矢香プロコフィエフ ヴァイオリン協奏曲第1番・第2番のcdはツタヤ宅配レンタルで手に入れた。この人は、ベストオブクラシックnhkFMで聞いて惚れた。プロコフィエフのこの演奏はすごく格好いい。ショパンもすごいと思ったけれど、プロコフィエフも斬新でいい。この2人はわかるけれど、ベートーベンはよくわからない。レンタルで庄司さんの演奏で借りたけれど、僕には良さが見えない。僕に理解能力がかける。ベートーベンはヴァイオリンソナタ


 休みの日の音楽はすごく大事。ここぞという、休みたいときに聞く。その時間の静かな時を大事にしている。休みの日の火野正平・心旅の30分も同じように大事だ。その時間を大切に扱い、空けている。


 昨日は作業所で、スタッフに話の水を向けられ、僕も話に加わることができた。その前の日は、帰りの交通機関で絶不調だったので、どのくらい続くかなと思ったけれど、僕は調子が悪い日が来るたびに徐々に地が固まり安定してきている。

僕の場合良い日だけが来ることはあり得ない。悪い日があって、その後・良い日が来る。バイオリズムで好転していく。悪い日の過ごし方が重要になる。悪い日に考えることが、次に過ごすための基本設計になる。今回は、父の執着だった。その前は、女を抱きたいで、その前が・弱い男だった。

これらは僕の屋台骨で、僕を運営するための基幹になっている。これらは調子の悪い日に見つけ、その後の指針になっている。悪い日のほうが盛り上がるし、冴えているところがある気がする。悪い日は踏ん張ってエネルギーを出すので逆の意味で充実している。嫌な日でもあるけれど、トータルで見ると転換点になる。本当は来てほしくないけれど、楔(くさび)でもある。



 庭は、きのう、こまつなの間引きをして、母の料理でみそ汁になった。味はどうってことなかった。みそ汁の中ではペタペタしていた。もう少ししたら、収穫できる。収穫というか、食べられる。野菜の命を奪う食事。僕は雑食だ。収奪者でもある。




 本を読む時間が、最近特に楽しい。調子の悪い日は頭に入らないけれど、読めれば、作業がすごく楽しい。行為作業が、僕にとって食事のように大事で、僕の栄養だから、これがないとさびしい生活になってしまう。


僕の頭で考えたことがなくて、僕には考えられないことが、他人の思考で構築されたものを僕が追体験として、僕の栄養素とすることができる。僕は他人の思考の産物から恩恵を受け、僕の生活として読書とし、僕の燃料になっていく。他の世界へ連れて行ってもらえることが楽しいのかもしれない。自分という閉じた世界から、外へ目を向けることができる。僕の力ではできないことが、本でできる、体験できる。拡張されている。(同じことを繰り返し書いています。)


 僕は世界に開いていきたいし、世界も開きたい。閉じた部分があるなら少しでも開きたい。そういう話が好きだ。自分をオープンにし、他からエネルギーをもらい(読書)、少しは解放させたい。最終目標としては、僕も少しは世の中の車輪となって、世界の働きに貢献したい。(世界に少し僕という追記を置ければいい・世界に一言でも一字でも加えたい・わずかでいい。)。


 最後の部分は、ただ坐る、ネルケ無方、光文社新書、2012の、
p248 

「私一人くらい、幸せにならなくてもよい。代わりに、人を幸せにしたい」と心から思える人こそ、実は本当の幸せをつかんでいるのです。そしてその心が「道心」に他なりません。