「父と僕」


商いの道伊藤雅俊、PHP研究所、2005


p79

人間の機微を知ろうとする


 商いだけでなく、もの作りの道でも、芸術の道でも、「人生に成功する早道を一つだけ挙げろ」と聞かれたら、私は、「どれだけ人間が好きか」ということを挙げます。

人間が生きている様子、泣いている様子、笑っている様子、怒っている様子、喜んでいる様子、人間のすべてをながめて、すべてに係わりたいと考えている人は、半ば成功したも同然です。

そういう人は、お客様の気持ちがよくわかり、好みにピッタリ合ったものをお客さまにご提案できるからです。





引用者:人間のすべての面を肯定している、そのことを人が好きと言っているのだろうと思う。人間のすべての面に係りたいという表現は、屈折して内向して育った僕にはわかりづらい。でも、人に対する積極性みたいなのは感じる。

人を区別せず、人という存在の全体を見て、人に対する愛というか、人に働きかける能動性を持っていることだろうか。


僕がおぼろげに感じている、人に対する祈り・感謝、人から許されている安心感みたいな感覚、他者存在に対する肯定的気持ちみたいなのが高進すると、
自由の道(人の中にいて存在することに息苦しさを感じない、自然な感情の発露ができる)が開かれてくると思う。
僕の、自分に対する理想の姿の発現が行われると思う。







2014/5/17(Sat)

「父と僕」

 NHK Eテレ 100de名著 「旧約聖書
第2回 人間は罪の状態にある P40~


 この部分を読んで、最初、父は僕を拒否と否定で接してきていると理解した。強権的な父。でも、真実は弱い男だと。僕の心的父、弱い男というキーワードと同じだと。


 だから伊藤雅俊という別の男を父に建てればいいやと。

 この本を読んでいて、この部分を読んでいて、聖書研究というのは理解と判断、批判なのだなと感じた。調子よく合わせることではない。この方法論が面白く、今の僕に利用できると思った。ヤハウェユダヤの契約の箇所。いろいろな解釈が出てきて、神との関係を説明する。いろいろな角度から眺めて。

 この部分を父と僕との関係についてみると、父は子供なのだなと。弱い子供なのだなと。僕の中の父イメージも、強権で批判的で拒否で否定という理解ではなく、弱いイメージ、弱い子供が父の姿ではないかと。僕の中の本当の父像は、表面的な圧力の姿ではなく、真実の弱い子供なのではないのかと。

 この時も、父を他から持ってくればいいやと思っていた。父が風呂に入らないかと言った時、僕は退けて入らないと答えた。部屋で父のことを思って、父は素直な気持ちで入らないかと言ったのではないかと思った。父は僕を愛してきたのではないのかと。日常の表面的な態度ではなく、本質的には愛してくれていたのではないかと。父という病、岡田尊司ポプラ社 にあるように、父は本質的には子を愛していると。



 僕に必要なのは、弱い子供の父を、自分の心の弱い子供の父を愛することが回復へとつながるのではないのかと。風呂は入ることにした。