父母 ??   制約  ?? 人間像


2014/4/27(_Sun?)


 父という病、を平日は作業所に行く前に商業施設のベンチで読んでいる。

 その本で、父親を否定する、低く言う母を疑え、みたいな文章があった。

 母が、家で父の批判、「怒ってばかり、計画がなくその場しのぎでやったり、手順を考えない」、といった批判だったと思った、のことについて、それは父の病気だと僕は反論した。


 父には欠点がある。悪い面もたくさんある。僕も嫌になる時がある。けれど、父は病気だし、病気に負けて自ら出す毒が回っている。父の良さは病気に隠され、覆われてしまっている。

 父はそんなに悪くない。基本的に善良だし、やさしいし、親切だ。けれど、病気に負けて、病気の枠で動いているので良さが光らない。病気に圧倒されて、脱出できなかった寂しい人生を歩んできただけだ。根は善良なんだ。毒を吐くのは、病気に打ちのめされ、自ら毒を生み出しているからだ。




 道新、生活欄、火曜日、6Kライフのススメ、渥美由喜というコーナーがある。
 この方が言っているのは、この前の記事、制約社員のことについて、無制約がいいのではなく、育児・介護・仕事・家庭などの制約の中でやりくりして、うまく時間を使い乗り切ろうと工夫する人間、無制約に時間を使って長時間労働する(無制約社員)のではない制約社員をすすめている。

 この制約社員という言葉、ぼくもA型の作業所に通っているけれど、休めないので自分の時間は減った。時間は限られ、できることも決まっている。その中で何をして、何ができないか定まってしまう。何かをやれば何かはできない。詰め込めば息苦しくなると思う。

 限られた中で、限られた事をする、制約された存在、制約社員は僕の問題でもあると思う。




 僕の人間像として、今まで確固とした人間をイメージしてきたけれど、周りに働きかけ、まわりに反応する、レスポンスのいい人間で人間像はいいのではないかと思う。

 僕は内向して、無反応でいままできた。