母親と一体化 未分化な僕

2014/3/10(Mon)


作業所の面談で、姿勢をよくしたらどうだとアドバイスされた。僕はうなだれて下を向いている。
交通機関で上を向いて思ったのは、首が下を向いて、社会的な、頭数の場に入っていなかったと。
僕は、あなたに屈服しています、と言っているような状態だなと思った。負けを宣言し、あなたに対する敗北を言っているようだと。


交通機関で思ったのは、(自分の状態が不利なので、なんとかしようともがいている)、僕は母親に対して子供の頃抑圧したのだと思うのだけれど、僕は母に対してよい子であろうとした。母に気に入られるために何かをやめた。この僕と同じ状態を父も持っている。父も負けていて、屈服している。それでか始終、不機嫌だ。父には固着がみられると思う。僕が成長できなかったのも固着が原因だと思う。父と僕は似ている。

母が悪いのかというとそういう話ではない。僕の側が母親べったりのマザコンより悪い状態なので、こういうことになっている。


父親という本は、僕の地図であり、すべてが書かれている。僕は母親から分離しなければならない。まだ、一体化しようとしている。




「父親 ユング心理学の視点から」、アンドリュー・サミュエルズ編 小川捷之(かつゆき)監訳、紀伊国屋書店、1987
p152
「~ 父親のアニマの問題を自分の内的体験にするためには、息子は通常、父親のアニマが望みそうな道を進むのを拒否する必要がある。」
p129
「~彼のような人々は、その幼児的な能力で印象に残る。つまり彼らは、自分たちの中にも満足と幸福とを達成するための欲求が存在していることにまったく気づかずに苦しみに耐える。自分を拘束している安全の幻想を断つことができないため、生の中で一種の死を静穏に受け入れているかのように思えるのである。~激しい怒りの暴力的な爆発、誇張された難詰がそれに続いて起こる。これは、望ましい発達であると私は解釈する。それを受け取る側にまわるのがどれほど不快であろうとも! 最後の段階として、患者はすべてを、彼の分析もおそらくは彼の生命すらも投げ出すという怖れがある。つまり彼は、「ひとつであること」を最後の最後まで維持したいという間違った望みを抱くのである。」~

p136

「私は、ブライアンのような患者の分析における抑制された攻撃性の問題についてひとこと言っておきたい。私は、次のことを示すのに十分な素材を提示できたと思う―力があるということをちょっと示すだけのことでさえ、患者たちには、どんなものもどんな人もこなごなに打ち砕きかねない抑えがたい爆発と思えてしまうのである。そのかわりとして、分析家は通常は、受け身なひきこもり、または引きこもった妄想的な反応に直面する。激しい怒りは内向し、なくてはならない他者を抹殺するのを回避し、抑うつ―絶望と言わなくとも―を生み出す。表面上なくてはならない「母親」像に対する攻撃性の吐け口は、もし父親という男性的構成要素が、攻撃と究極的分離という傷から母親を守り保持するものとして経験されないなら、あまりにも破壊的になってしまう。」


p132「~彼らは「正常な」人生、つまり社会に受け入れられる人生をすごすふりをしつづけて無限の苦痛に耐えているが、成功するのはある程度まで―一般的に言えば彼らの仕事において―でしかない。頑なに、彼らは強くて独立しているふりをする。それは、甚だしい寄辺なさと両親へのあまりに依存的な結びつきを隠すためなのである。彼らが分離へ向けて最初の出立を試みるとき、避けえない危機が起こる。~」



p142「~治療過程のきわめて重要な段階において、患者の無意識の中で、固着した<母-父>布置が再活性される必要がある、ということである。そのようにしてのみ、実際の母親との、あるいは元型的母親との「結合」という原初の空想化された段階を断ち切ることが、患者にとって耐えうることとなるのである。引き裂かれた両親による、成長と発達を禁止しようとするはたらきは、きわめて破壊的なものになりうる。しかしながらも、もし分析が首尾よくいったとしたなら、患者のパーソナリティのある領域―実際にあるいは想像の中で母親と「ひとつであること」にもっぱら関与していたため、患者自身の生を豊かにするのに無益であった領域―は、次第に彼へと戻され、彼をより生きたものにし、より全体的にするだろう。重要な人物としての父親の再出現とともに母親は次第に彼にとって安全に姿を現わすことができ、そして彼女はもはや損なわれた弱々しいものとは感じられない。要するに、私は、内なる両親の再調和過程を、治療における不可欠の要素と見るわけである。」