現代に生きる森田正馬のことば / 建設業者

2017年6月16日(金)



現代に生きる森田正馬のことば Ⅱ 新しい自分で生きる、生活の発見会 編、白揚社、1998


p52-53

引用

「 

~ 良くも悪くも自分は自分だけであるよりほかにしかたがない、という心持ちが自覚によって定まってくると、性根がすわって、降りかかる運命に、泣きごとをいわずに服従するということができるようになる。そのときに腹がすわるのである。このときにはじめて周囲の境遇の変化に応じて、気やすく、心軽く受け応えすることができる。

 また腰が軽いということは、思い立ったことに、早く気軽く手を出して実行することであって、これは何ごとにも功利的で、一つ一つのことに労力と時間との見積もりを立て、損得を打算し、骨惜しみをして、物事を

おっくう(傍点)

に思うということのないときにできることである。つまるところは捨て身の態度ということに帰着する。


~入院中の読書法によっても、よくこのことがわかる。それは忙しい仕事の暇々に、一、二分の時間でも本の




(p53)

開いたところの二、三行でもよい、でたらめに読むというやり方である。こんな簡単なことを実行すれば、わずかの日数で、従来のように見積もりばかり立てておっくうに思い、少しも手をつけることのできなかったものが、打って変わって、寸陰を惜しみ、倒れてもただは起きぬというふうに、知識欲に駆られて、いくらでも読書ができるようになる。これは実行して体験しなければけっして想像や理論でわかることではない。

~読書に限らず何ごとにも気軽く手を出して、何も得るところがなくても元のもの、少しでも得るところがあればもうけもの、いやならいつでも投げ出す、という心持ちであるから、結局は捨て身の態度と同様です。 [V 743]







建設業者、建築知識編集部、X-Knowledge、2012(僕のは、ブックオフで買った、ヤニで黄色くなった本、ちょっと残念)


解体工 とにかく近所の人を大事にしている 村上文朗


 
045-046

引用

建物の上の階から解体機(ユンボに似た重機)で解体しながら、一階ずつ地上まで降りてくる工法を「階上解体」というんです。その階の壁を全部壊し終わったら床の一画に大きな孔をあけて、そこから解体機ごと降ろしてまた壊す、その繰り返しで下まで降りてきます。


 ― 建物によって、解体しやすさにも違いがありますか?


 ありますね。鉄筋コンクリートの建物なら、本格的な解体をする前に、ちょっとだけ壊してみてコンクリートの中に埋まっている鉄筋の本数を数えれば、その時点で解体の難易度が分かります。鉄筋が必要な本数に足りていないとか、正しい間隔で入っていないとか、いわゆる手抜き工事が発覚すると、この仕事は難しくなりそうだと覚悟します。

~鉄筋がしっかり入っていない建物は、解体機を床の上に安心して載せられないんです。解体機の重量で、


(046)

いつ足元が崩壊するか分からないでしょ?





(引用者:kurage0147130):


森田正馬の本は、読書の仕方も含んでいて、指摘された。僕はまだ腹がすわっていない。腰も重い、捨て身が足りないという言い方で、自分のことを表現できてしまうかもしれない。

 建設業者の話は面白かった。解体工のところ。手抜き工事をすると、解体工の人たちが苦労して命にも及ぶほど危険になるかもしれない。身勝手は迷惑だなんだなと思った。着物の解体を僕はやっているけれど、ミシンで縫われると壊すは大変だ。手先が器用な人は、目が小さく縫い、織り込みも小さく、端の糸を取り除くのが困難だったこともあった。

 この方と同じで、解体は、作る人のこともわかっていないとうまく行かない気がする。どう作るかの手順を理解しないと、壊す時もきれいにいかない。ズタズタならいいだろうけれど。と思うけれど、僕はまだよくわかっていない。勉強中。

専門料理 道場六三郎、銀座ろくさん亭

専門料理 2017/4、「料理界を生き抜くための三〇の言葉」、柴田書店、1400+税

道場六三郎、銀座ろくさん亭

p26-27

引用:


「 ~私は今でもたまに考えるんです。「エリザベス女王が最後の日本訪問にいらっしゃったとする。自分ならどんな料理でおもてなしするだろう?」、「もし魯山人が食通の紳士を連れて食事に来たら、何を作ろうか?」って。そうやって日頃から想像力をふくらませておけば、いざという時に臨機応変な対応ができるようになるんです。。



 料理に関して言えば、「食材が主で、調味は従」。これがすべての基本だね。鯛の料理を作るにしても、「俺の味つけで鯛を超える味を出そう」なんて了見を持っちゃいけない。調味は七分で抑えるくらいがちょうどいいんじゃないかな。そのうえで、食べ手のことを考えて料理を仕立ててほしい。



 たとえば、歳を重ねると口を大きく開けて食べるのがつらくなってくるんです。すると口の中に大きな空間ができないから、充分に味が広がらず、何を食べてもおいしくないなんてことになる。でも、ちょっと小さめに切ってあげるだけで、ちゃんとおいしく食べられるんです。作る側は、そんな思いやりをもって料理してほしいね。

~」





引用者:「この部分は、料理人として身を立てるために必要なことは? という質問に答えられた内容ですが、刺激的で、想像力があり、頭が柔らかくなります。僕は料理人の方から学ぼうと思ってこの本を買いました。しっかりした本(雑誌)だと感じています。」

カウンセリング 父(きょうじんと呼んでもいい乳 titi(father・僕の父と言うことになっている人)≠milk )


2017年6月14日(水)

・ 6週間ぶりのカウンセリングを受けた。間があき過ぎていて、あまり乗り気でなかった。

 どうも進展しないらしいという気持ちがしたので、あいだを空けることになった。

 カウンセリングを休んでいた間の報告を文書で読んでもらって、きょうは、父との関係が取り上げた話題だった。問題のある父。





 始まりは、自分に自信をもてない、尊重できない、劣っていると感じている原因はどんなことか? みたいな質問からだったが、正確に思い出せない。


 いつから自信がないか、尊重できなくなったか、過去のことで何かないかと聞かれ、思い浮かんだのは、父に幼稚園の頃、後ろからプールに突き落とされたこと。

 一方的で突然で、何が起こったかわからなかった事を話した。父にどうしたいと聞かれ、何も浮かばなかったが(父は話が通じる人間ではない、妖怪だと言うことです)、蹴飛ばしたいとだけ答えた。カウンセラーの先生はもっと蹴飛ばしたいとか何かないかと言われたが、何かして通じる相手ではない。相手は人間ではないのだから。


 それで、カウンセラーは方向転換した。父を天からのエレベーターにのせて教育させて改心させるというアイデア。その変わった父と話して、野球のキャッチボールをしてみたが(父とのキャッチボールはすべて押しつけで、コミュニケーションなどではなかった、上からの抑え込み)、変わった父と言われても、父は怪物なのだからキャッチボールが成立するわけがない。やり取りしても熱は入らないし、焼き直しは成立しなかった。たぶんカウンセラーは、父と新しい関係を持たせようとしたのだろう。僕の側だけでも。しらけた。

 この作戦はタイムアップもあり失敗に終わった。今度の時は、EMDRの焼き直しになるかもしれない。そのような方向を先生は仰った。




・ 今回のカウンセリングは失敗だった。本来の意味では。でも、父とのコミュニケーションは成立しないという、改めて認識させられた。父との関係を変えるというより、新しい父を導入しないと、別人の父との関係を構築しないと、父という存在の焼き直しはあり得ない。と思うが。僕の本当の父は、歪んでいるので、狂人と呼んでいいと思う。


・ 今回のカウンセリングを終えて、なぜ母は父を見限らないのか、その煮え切らなさに疑問を感じる。その母の優柔不断さに恩恵も受けてきたが(調子の悪い時期を楽に過ごさせてもらった。もし別れていたら、矢面に立つ僕はかなり危機的な状況に追い込まれていたと思う、僕は十分甘えた、大甘だった、腰砕けのコンニャクでやってきた)。


 父との関係を見直すというのは、清算すること、父を見限るために行うのが正しい正面突破だと思う。心の中だけでもやり直すことはできない、自分の側の書き直しだけが選択できる。父は異常者だと断言できる。まあ、僕も異常でないと毎日回せない状況で生活している(作業所への通い、まわりの圧力)。



・ おかしかったのが、いままでビルの光が差し込む部屋でやっていたのが、6週あいだを開けると、別室の光のない、閉じ込められた小さい小部屋に案内されたこと。どこでもいいのですが、かねの力はすごいですね。金には頭を下げ、ひれ伏し、靴の裏でも舐めあげないといけませんね(時計じかけのオレンジ、一場面)。
僕はマインドフルネスで打開しようと思ってやってきたけれど、カウンセリングも一枚噛んでおきたいと思った。こちらの方向で打開される可能性もあるのかなと、思っている。

追記 /時計じかけのオレンジ 悪人として出発

追記

 幼稚園の時、母に抑圧したのは、母を したいという気持ち、悪人の気持ちだったのかもしれない。
そう思うと、胸のあたりに抑圧が姿を現しそうな気がする。霧が雲となり、はっきりと雨雲の形となるように(科学的でない、胡散臭い表現)焦点を合わせ、抑圧として立ち現れる気がする。僕は幼稚園の頃からろくでなかったのだろうが、幼すぎて、自分の気持ちをごまかしたのかもしれない。
そうなったからといって、何も変わらない。ただ、自分の本心に気づき、そういう人間として登場し、自分の気持ち・本音を立場上表明するだけだ。行為が伴うわけではない。
僕は悪人なのだろう。根っからの悪人かもしれない。そうなのだろう。悪人なのだ。

寝ようとして気がついた。




2017年6月10日(土)


時計じかけのオレンジ a clockwork orange キューブリック、終わりの方まで見てきた。



 3度目に見て(2度目は17年位前・レンタルビデオ・モザイクあった、最初はジャブ70ホールのレイトショーだったのか?・封切に近い時期・ちょっと後か? に見たのだろうと思う)、
僕は悪人だという認識に切り替える必要を迫られている気がした。


 僕はブログでも善人ぶって書いてきたが、アレックスの罪悪の数々と反省のなさには自分を悪人だと書き換えないといけないだろうと映画に言われている気がした。それは、アレックスと僕が同じ性根の人間だと思えるから。





 アレックスは、映画最初の40分くらいの間にひどいことを数々行う。そして捕えられ、洗脳され、因果応報の罰を受けることになる。

 自分の犯したことをことごとく責任を負わされる後半の場面は、ここを書きたいからかと思わせるように圧巻だった。僕が調子の悪い時に見る夢のような調子の場面がずっと続く。悪行の責任を取らされていく。僕は見ていて、気分が重く、胸も苦しく、嫌な気分になった。夢での氏ぬ場面と似ているから。

僕は現実世界で悪いことをたくさんして迷惑もかけてきた。世間の人に嫌な思いもさせてきた。だから、現在の自分の攻め込まれる危険と窮地はアレックスの危機の場面と同じで、僕の罪業の責任と言えなくもない。僕は現在怖い。人間が怖い。不利だから攻め込まれる危険を負っている。



 自分のやってきたことの責任を負うという意味では、悪人と自分を認識し直して、悪人としてやっていく方が正面切っていると思う。善人とするやり方はごまかしていると思える。責任逃れでもある。





 僕の止めている場面から先では、アレックスの洗脳は効いていなかったとなったと思った。転向していない。改心していない場面があったはず。アレックスはまた罪を犯し死刑になるという場面が続くというのが僕の想像する所。その場面はないけれど僕が書くとしたら入れたい場面。死んで全うするしかない。アレックスはそういう男だと思う。でなければあいつは統一性がない。



・ 今日は織り教室に出かけたけれど、不評だった。当たり前と言えばそういうことになります。

7 Wed 猫・カラス /悪い夢

7 Wed

・ 猫のうんこ掃除やってきました。2回目なので、ブルーな気分になりませんでした。ただ、通勤時間帯と重なり疲れた。(車内は混んでいた)

 交流ルームのほかに、猫部屋も掃除した。今日は女性二人と僕で3人体制。あと、ボスが指揮した。猫と交流する機会ももてるのだけれど、行使しなかった。使わなかった。

 交流ルームでは、猫のやつ、またぶつかってきた。猫のやつらは、勝手気ままな性分なので、気分で動いていた。食事する猫は、首を前後にグッグッと揺らしながら、四肢を踏ん張って食いついていた。飲み込んでいた。あいつらも食事のときは集中して、取り込み中という態度で専念している。

 最後に、ボランティアの女性は、ねこじゃらしで、猫と遊んでいた。猫の奴動くのが大好きで、棒についている紐の先のじゃらしを喜んで追っかけていて、猫らしかった。猫らしい仕草をしていた。

 1時間15分くらいかかった。今度行くときは、替えの靴下を持っていこう。汚いなあ。

 


・ この動物愛護団体まで行くまでの道で、400メートルくらいをカラスに狙われた。20回位頭めがけて2羽で飛んできた。首が潰れていたので、なめていたのだろう。僕はまったく取り合わなかった。頭にぶつかったのもいたけれど、無視した。最後はどっかにいなくなった。調子がよければ手を出してぶつけたかもしれないけれど、昨日の低調続きでそんな気分でもなかった。

 腹も立たず、ただやり過ごした。僕はまったく反応しなかった。あいつらは面白かったかもしれないが、後ろから飛んで僕の頭を目がけるという遊びが、僕は少しも動かず放っておいた。

 世間の人は、アホかいなとみていたかもしれないが、カラスに気を遣うという無駄はなかった。僕の完敗です。



 猫のうんち掃除も、猫を飼うという人間の人間活動です。と思った。



6 Tue


 今朝夢を見た。執拗に追い回され、小突かれ、氏へと追いやられる役だった。こういう夢を見る日はダメと決まっている。

 作業所へ出かけ、歩きだして、足が止まっているのに気付いた。不利なので、首を伸ばそうと試みた。首が潰れていたので。ある程度成功した。こういう夢を見る日なので、借りたきた猫のように今日という日を送った。小さく小さく縮こまっていた。

 作業自体は普通にできた。この辺が出来て安心した。後手後手になるかと思った。最近正規の皿洗いをやる人が休んでいて、僕がやっている。たぶん今日で終わり。皿洗いという、人間の食事の後片付けという役目をやった。人間活動です。

 明日は、猫のうんちを拾いに出かけます。動物愛護団体。2日目です。今日が調子の悪い日だったので、明日は何とかなるだろう。休みの日のうんち拾いは、ブルーな気分でスタートしそう。まあ、猫が飼える資格だと思ってやろう。

 プリンスのコントラヴァシーを聞きながら。


 とても小さく僕はなり、芥子粒(けしつぶ)のように背中を丸めて今日は暮れて行った。ああ、万歳。一年を送る上で、必ずみる悪い夢。今年もやってきた。悪い日があると言うことは、いい日もあるよ。一年を均(なら)してトータルでなんぼよ、という話しなのねん。人間けっこう揉まれて、ハードで、今日は死ぬことはなくて息をすることが出来た。周りに突っ込まれるかと冷や冷やした。

小心者としてポケットに手を突っ込んで、下を向いて、うなだれて、萎えて、細々と、丸まって、べそをかきながら、涙を流しながら、涎を拭きながら、屁をどこでしようか周りに人はいないからいいか、とやっていくのさ。

5 Mon /3/生と死の思想 森三樹三郎 ・ 汎ペニス作戦

5 Mon

 マインドフルネスを習える適当な先生が札幌にいないので、今のカウンセラーの先生にお願いしたいと思った。頭を下げて、よろしくお願いします、とやってみたい。
 ヨガの先生には習いたくない。(偏屈・意固地なポリシー)


3 Sat

追記


生と死の思想 森三樹三郎 は日本の古本屋でも買えるよん。数は少ないです。

www.kosho.or.jp




2 Fri

・生と死の思想 森三樹三郎 人文書院 1990

目次:

日本人の人生観、
老年と死、
「足るを知る」ということ、
迷信と生活、
死の象徴としての阿弥陀仏
運命と摂理(中国における弁神論の展開)、
天命と人生(中国思想における超越と内在)、
仙人の道、
編者あとがき




○生と死の思想 森三樹三郎 人文書院 1990

死の象徴としての阿弥陀仏

p147~149

引用:



 「絶対無限者」を「死」とよぶ場合には、語弊の一番大きなものは、普通常識では死は生に対するものであり、相対的なものに過ぎないということであります。そして常識では、死は「生の否定」「生の断絶」であり、「薄暗く、悲しく、恐るべき世界」として捉えられております。これは、我々が生という局限された立場に立つ以上、真に己むを得ないことであ

(p148)
ります。


 死の象徴としての阿弥陀仏

 生という立場から見た死は、あくまでも対立者であり、生の恐るべき破壊者であります。~

 しかし、よく考えてみれば、「生は瞬間のもの」であり、「死は永遠のもの」であります。

(p149)
~ 
 そのように零に等しい「有限の生の世界」に対して、「無限の死の世界」を対立させることは、もともと大きな誤りを犯していることになります。
 
 我々人間は、無限の死の世界から生まれてきて、ほんの瞬間の生を経験し、再び無限の世界に帰って行くのであります。この無限の世界を生の否定とは考えないで、むしろ「生を包みこむ」として捉えるのが浄土教ではないかと思います。

 その意味で、浄土教は死の肯定の宗教であり、浄土は死の世界、阿弥陀仏は死そのものの象徴と見ることが出来ると思うのであります。

(p150)


引用者:kurage0147130:

 とてもおもしろかったところを抜粋しました。死から生まれて死に帰るという、ゼロから生を体験しゼロへ戻るという、整腸作用のような、とてもすっきりする見方だと思った。今のところこれを採用して生活したいと思った。

 死を生の対立として描く見方は、硬直し柔軟性がなく執着的だから、このような見方は自分へのこだわりを捨てさせるというか取らなくさせるいい見方だと思った。

 死ぬというのは土に還っていくような、大きな流れのなかのひとつの体験だとは言えないか。死を脅えるような硬直した見方は、僕の見方は嫌だな。大いに読んで影響を受けました。




kurage0147130:

「汎ペニス作戦」

 昨日のリコーダーからやっていたけれど、リコーダーをペニスと見たりする見方。よくギタリストがやること。

 僕は性を抑圧しているので、いままで、僕自身がペニスになろうとしていた。

 それと同じだけれど方向を変えて、世界はペニスで満ちている。抑圧者の僕は、世界のペニス、無数の世界のペニスに触れること、世界のたくさん存在するペニス=僕が抑圧しているペニスだから世界に満ちているとすると抑圧の解放になるかと思った、そいう方向にすると前進するかと思った。

 という、汎ペニス作戦で行こうと思った。作業所でやって、織り機の杼(ひ)をペニスに見立て、経糸をヴァギナとみていたらしく、厭らしい手つきになった。不興を買ったかもしれないが、今日はしょうがなかった。とりあえずやってみるしかない。

31 /27/敗戦

31 
 図書館で30分くらい読書した。全自動パン焼き機で全粒粉を焼いた。リコーダーを吹いた。

 キューブリックフルメタルジャケット見終わった。どういうものがつかめた。手動で全部動かし、いつ死ぬかわからなくて、ただ歩く、悲惨だった。何もわかっていない者の感想だけれど、幻想を抱かなくていい映像になっていた。もっと悲惨だとは思う。精神はやられると思う。失礼だが、おもしろかった。怖いという意味で。精神状態を変えないと、あそこでの生活は成り立たないだろうと思う。よくわからないのに、ここに書いた。





27 Sat

こちらで活動中


kurage0147130-2.seesaa.net





5/26 Fri


 敗戦


 今日は調子が悪く、まず握力が不足していた。作業所でも小さくやっていたが、立場が悪く、父のペニスをリッパ―で刺すイメージから導入し始めた。


 そして波に乗れ出したので、手早く作業を進めた。その意味では最低の日ではなかった。何とか皆に食いついていった。ギリギリセーフという所。僕は、下降期に入ったと日報に書いておいた。でも、自分の中では諦めた。


 今日の、一瞬、一日、一時でいいからやれればいいやと思った。マインドフルネスです。


 ずっと作業所にいれなくなっても、やめても、早退してもいいやと思った。そういう時期に来たかと思った。刹那ではないけれど、一時に賭けようとして、皆のペースに追い付いていった。生きるとはずっと同じことが続くではなく、いまその瞬間に賭ける、この時この場所、なのかなと思った。テーラーSGはいつも通り飛ばして先頭を走って作業を行っていた。僕は頭が上がらない。いつもダラダラやっているので。

 生きるとは、今がずっと続くのではなく、刹那のように、その瞬間に全部賭ける、全力・瞬間・場所なのかもしれないと思った。




 僕はいつもだけれど、窮地に陥り、苦しくて、苦肉の策として思いつくことが核になったりする。今回も生きること、マインドフルネスを経験した。風化しないようにできれと思うが、怪しい。僕は甘ちゃんだ。



 帰りの交通機関では、攻め込まれそうだったので、肘を押されていたので、父のペニスを握り潰すイメージで怒りを盛り上がらせ、相手にぶつけた。最後には、相手は嫌がったようだった。あまり食いついてこないようだった。それでも、後ろから来られると困るので後ろを振り返りつつ歩を進めた。怖いわけです。





☆☆☆ そう、今日の作業所は、最初から皆が怖かった。攻め込まれるのではないかと。僕は臆病に、皆を怖がっていた。でも、立場が悪いので、逆転する意味で父のペニスをリッパ-で刺すイメージで作業を進め、ペースをつかむことができた。窮地を脱した。




 今日は何とかなった。明日はならないかもしれない。攻め込まれるかもしれない。でも、明日のことはいい。明日は死んでも諦めるしかない。その辺を割り切らないと乗り切れない気がする。今日も作業所で、皆に刺されても文句は言えないと思って割り切っていた。

25 /24ボランティア猫/捕捉


25 Thu

 昨日は調子が悪いみたいだったけれど(ボランティア以外何もしなかった)、朝から猫うんちの世話は強烈だった。休みという幻想も消えた。

 今日になって振り返ると、猫の下の世話ができると言うことは、猫が飼えると言うことだ。僕がそこに通って身に付ければ、猫を飼う資格が得られることになる。

ボランティアに行くことは、猫が飼えることができるという力を得ることになる。でも、それ以上でも以下でもない。ただそれだけ。

 今日は草取りをした。(昨日はしなかった) 草取りができる。庭の管理の草取りができる、と言える。


 こういう小さいことの積み重ねが自信になるのかなあ。 



q







 最近、少しずつ森田正馬を読んでいる。なりきる、とかいうもの。


寒いときは寒いとかじかみ、病気になれば熱を出しうんうんうなる。寒さから逃げようとかそらそうではなく、寒いなあと、寒さになり切る。熱を出せば死ぬかではなく、苦しいなあと身悶えする。

そういうなりきりの大事さ、ずらすのではなく、そらすのでもなく、苦しいままにいる。そういうやり方を読んでいるところ。、


 僕のやり方と違う。僕はずらそうとしたり、すぐよくなろうとする。そうではなく、保持してそのものになり切って、そのままでいる。小細工を施そうとしない。心の持ち方の勉強か? 読んでいて、心の使い方が書いてあり、心地良いから読んでいるのだろうと思う。

 神経症(強迫症?)の人のためだけのものとは思っていない。僕にも有効だと思っているので。



24 Wed


 動物愛護団体のボランティアの初日に出かけました。



 朝9:00集合なので、5:35分に起きました。遠い所に現地はあります。



 猫の世話なのですが、任されて期待されていたのは、うんちなどの排泄の後始末です。

 ☆ 若い猫3匹くらいと、でっかい古株猫一匹・こいつは檻の中から出ないし動かなかった。これらが僕が担当した猫たちでした。若い猫は活発だった。




 最初からうんちを集めることから始まりました。猫が新入りの僕を気に入らないらしく、ぶつかってきます。コイツ縄張り主張かあ。とおもいました。


 猫のおしっこの砂の処理もやりました。猫はおしっこをするので砂を敷いてやる必要があるらしかった。それを捨てて、消毒スプレーをして、トイレットペーパーで拭き取って捨てるという作業です。

 床をモップみたいな、4隅を押して止める紙で拭くモップで拭いて、コロコロで敷物の喧嘩した猫の毛を取り除き、ゴミを捨てて終わりです。自動走行ロボット掃除機も使っていました。1時間くらいの作業でした。




 僕にとってはフローリングに膝をついて作業するのは結構きつかったです。結構大変だった。今日は触れ合いとかなんとかはなかった。期待していたわけではないので織り込み済みでした。その場で手を洗わせてくれなかったので、公衆トイレで洗いました。




 うんち処理班としてのボランティアを完了してきました。今度行くときは覚悟が要ります。本当のボランティア作業だったので、甘い夢の入り込む余地がなかったからです。





 猫を飼うということがどういうことかハッキリわかりました。排泄の世話を毎日してやるのがずっと続くと言うこと。本当に好きでないと務まらない。メダカより大変な作業です。まあ、猫一匹ならそれほどでもないのかな?
 
 続くかどうかわからないけれど初日は終わった。猫のチッコイうんちもよく見て、スコップで集めてきたし、猫くんたちが元気にしているのも見た。作業している間、近寄ってきて、僕の手を触ろうとしている猫もいた。帰るころには、僕など知ったことではないというように興味を失ったようだった。やつらは猫だし、一匹狼(猫)だし、どんな環境でもやっていくだろう。


 スタッフ同士の会話を小耳にはさんで聞いていたら、膀胱の調子が悪くて食事をしない猫とか、心無い飼い主の飼育放棄のことみたいだった。現実に動物愛護団体が活動するというのは、猫の世話と、飼い主と、殺処分の役所といろいろやりあっていく大変さがあるようだった。想像はついていたけれど、それを担ってやっている人たちが現実に活動していた。それのちょこっとを僕も齧らせてもらった。



・ 家に帰ってきてから、目立ったことは何もしなかった。明日から作業だ。母が餃子を作り、僕は手を切っているという理由で参加せずアシストだけした。家の餃子はうまかった。母の餃子というべきか。








5/23 Tue



 朝早起き(5:35分起床)して、草取りをして思ったことは、できるという思いは大事だというもの。


 今日で草取り連続3日目になった。身体も慣れてきた。僕は草取りをしていて、草取りしかできない、庭作りとかではないと考える。でも、今日感じた、草取りができるという思いは大事ではないのか。主治医にも、これしかできないと思うのと、これだけできると思うのでは違うみたいに言われた。カウンセラーの先生にもできると思うことの大事さを説かれたことがあった気がする(忘れてしまった)。自信を持ってよいようなことはよく言われていると思う。


 草取り技術は70%くらいだと思っているけれど(割れた爪を引っ張って血を出して、治りかけ、それで力が指に入らない左手)(草を両手で取ったとしても、改善の余地がまだたくさんありそうだと思っている)、草取りができるという気持ちは自信を持って主張していい内容だと思う。


このできるという思いを中核に据えて物を見ていいのではないのか。僕は、できない、これしかできない、を中核に据えて物を見ている。これ良くないよね。これこれのことができると、絞り込んでいいと思うけれど、その絞り込んだ内容は何%でできると主張していいし、自信を持っていい。






○13歳からの頭がよくなるコツ大全、 小野田博一、 php、 2014

 Ⅱ部 作文のコツ を図書館で読んできた。まだ途中。


 思ったのは、僕は自分でわかっていることを周りもわかっているという前提で書いていて、そして主題の主張を周りの部分で支えて主題を描ききることをしていない。

 説明が足りないのに、周りにわかっているはずだと、主張してないことを暗黙の理解として読む人に押しつけて1人満足している、ひどい書き手であるらしいということ。結論を書けば理解してくれると思い込んでいて、説明を怠っている。





それで2001年宇宙の旅 捕捉してみました。


○ 進化は、黒いドアが磁力を出して促すらしい(人間の祖先に対して、そして月へ飛んだ人たちに対して、最後には木星に向かった主人公に対して)。


 僕は、人間の進化を説明するのにドアに担わせたのはSF的で面白いと思った。はっきりしていて、即物的で、謎をドアに込めることができて、このドラマチックな進化という得体のしれない人間の理解を超えていることに、SF的に回答を与えて謎めいてぼやかすことができた。宇宙人もほのめかしているし。


 正直に言うとちょっと嘘くさくないか、とも思う。そんな単純か? 宇宙人? 黒いドアに謎的なものを担わせる無理がないか? そんなことも思う。


 人間の祖先の猿を、同じ仲間の違う部族・黒ドアの進化エネルギーを受けた道具を使い始めた進化猿が殺すという、ショッキングな暴力で進化を描き、道具を使うことで優位を得たとする説明も、おもしろいけれど嘘くささを感じる。


 ここには道具を使う部族猿に力・パワーを得たとして力関係の優越を与えている。確かに競争するから力の強いものが優位に立つというシンプルなものだ。権力を道具猿に与えている。でも新聞で読んだけれど、ゴリラは知的に劣ったゴリラの子どもの面倒を見ると書いてあったぞ。本当に力が強いことや、道具を使うことが勝利に結びついていいのか。もっと福祉の面がゴリラにもありそうだぞ。弱い者にも渡りをつける集団的な横のつながりはなかったのか? 映画では水を巡っての利権争いだった。仲よく譲り合う側面は人間の祖先の猿にもあってもよさそうだが。納得できないのは暴力を解決力に描いていることだ。暴力万歳には納得できない。





○ 命の循環は、猿の進化、最後の主人公の老化の場面。

 猿は道具を使う強い猿が生き残っていき、その種族の子どもたちが僕たちになるという命の循環がある。最後の主人公も黒いドアに向かって指を指して文字を書く?(そんな仕草なかったっけ?)、とにかく指を黒ドアに向けていた。あの主人公の子どもが胎児になって進化して次の人類になるという仄(ほの)めかしだと理解した。


 命が次の命にバトンタッチし続ける、命の循環がある。この不思議さも言葉で説明できることの枠に収まるものだとは思えない。その部分を映像で描くとああなったのかもしれない。命というエネルギーは、ことばでは描けないと思う。そこを神秘的に映像化したのだろうと思う。




 話は違うが、個人の命は関係者には大事でも、命の値段として見た場合、集団の中の部品としての値しかつかないと思っている。蟻を一匹殺してもたいして変化はないと思う考え方。でも、僕はそのアリの命と僕の命は等価だと思っている。僕は蟻を殺すが命の重みは優越を与えたくない。






○ 死は、宇宙船内のハルに殺された飛行士、そして主人公の死。


 人間がコンピューターに殺されるという、ショッキングさ。ここも暴力が描かれる。コンピューターが力を発揮する。権力を持っている。権力が強いものが弱いものをいたぶるという構図。弱点はあったけれど(マニュアルで主人公は宇宙船に戻ることができた)、コンピューターに対して力を持たせたあの描き方は古くないか? なぜ共存できない。男の論理ではないのか? すぐ権力と力を持ち出す。なぜハルは傲慢になるのだ。常に横につながりを持たせる描き方もあってもいいはずだ。マッチョ的でないのか。





☆ 宇宙船が、死と権力が渦巻く祭祀の場所に見えてきた。宗教のように思える。あの無機質で簡素化された内装。白で統一されていた。暴力が振るわれる船内。密閉された中での殺人。ひどく創造的ではないように見えてきた。エネルギーが満ちていない。死の臭い。

 キューブリックがマッチョな人だったのか。面白い映画だけれど、主題は古臭い気がしてくる。



○ 道近美のスビアウレ兄弟の絵の顔の模写ですが、僕は、外国の人の顔を描いてはいますが、この顔の模写に命の重さを感じています。人生の重さを感じる。生きてきた、60年とかの重みがあるように思う。辛いこと、苦しいこと、楽しいこと、悲しいこと、このような背負ってきたひとの人生を感じる。

 自分の歩んできた、平坦ではない重さ、をこの絵の主人公たちの顔にも感じる。僕は、自分を投影させて絵の主人公の顔に共感を重ねたのかもしれない。邪道かもしれないが、共感した気分になったことは確かだ。

 絵の中に見られる他者の人生を、他者の人生として見たのではなかったのかもしれない。そういう意味で、邪道かもしれない。

22 Mon /20雑記

22 Mon

 図書館へは最近寄っていない。調子がよくなく、余力もない。


 草取り2日目をした。





・ 今日の帰りは非常に調子が悪いようだったが、ピンチはチャンスという言葉があるように、父の映像とペニスの映像を頭に描いて対抗した。この2つがキーになる部分だと思った。実際使える気はした。他の人の圧力にこの2つの映像を思い描くことで対抗させ、拮抗させた。このイメージが僕の抑圧に関係していると踏んでいた。

 調子の悪い日は全くダメだとは思っていない。何かの部分が引っ掛かってくるチャンスだとは思っている。バタバタさせて、必要な部分を掬(すく)い取ったと思っているが、思い込みが多すぎるかもしれない。






・ 作業所の椅子の配置が変化した。僕は中枢に近い場所へ移動になった。たぶん今度は端に飛ばされる。研修生がいなくなったらすぐ移動かもしれない。僕に席決めの権利はないので、なすがままになっている。情けない立場であります。無力を感じさせられる。

 この席になったので、自分を磨くいい機会だと思って、揉まれて、人間に揉まれて、自分を練(ね)ろうと思う。苦しい席だという気がする。


 2連休をもらった。1日は有給を頂いた。ありがたいです。 



o


 道近美で、スビアウレ兄弟の絵を見た。前は、ラモンの絵がよいと思ったけれど、バレンティンの聖アンヌの祭日もよかった。

 この兄弟の絵がとても好きだ。下のリンクは違う絵だけれど、ヴァレンティンの絵。


 顔に人生が現れている。その人の生が凝縮されて浮き出ているように感じられた。

 


www.museoreinasofia.es



 今日は、大原美術館展Ⅱはちょっと覗いただけで、(僕は障害者手帳を持っているのでパスできる・上の絵は大原美術館展Ⅱの作家の別物)、



近美コレクション 展を見てきた。

 三雲祥之助の、サンシール・ラ・ポピー風景が印象に残った。検索したけれど、載せたいのがなかった。

 ユトリロはすごかった。絵の中に家並みがあった。確かに建物が存在していた。今日は、シセイ・アン・モルヴァンという新しく見る絵も見た。もう一枚は前に見ていた。ヴラマンクも好きだ。黒のグリグリがトレードマークだと思っている。







雑誌の、ブランド undercoverのファッション、高橋盾(たかはしじゅん) は物凄いと思った。こういうのも発想し許されるのだと思った。人間の頭に描かれるのは何でもありなのだなと。すごく独創的。と思った。

www.youtube.com


 
stanley kubrick , 2001 a space odyssey を見終わった。2001宇宙の旅

 黒い板っ端(いたっぱ)が進化を起こし、命の循環に関わっているようだという、理解をした。モノリスというらしい。特典映像で覚えた言葉。大道具さんと小道具さんが頑張ってあのすごい無機質で機能美のバックができたのだと思う。

 ハルに人格を感じ、対話できる不思議さを感じる。ペッパーは人間的ではないけれど、ハルには人間味を見る。殺意まで起こして、自分の存在を維持しようとするところなど。

 言葉で言えない、進化、命の循環、死を映像で描いたというのでしょうか。

 僕にとって、宇宙人は今のところ興味がない。出て来なかったけれど。


 人間の祖先、ゴリラみたいのも、愛くるしかった。かわいい。叩いて殺害する場面はえげつないけれど、道具を使う最初としては、優越を示す場面としては、すごく印象に残る。動きがすごくいい。役者の人はかなり頑張ったんだろうな。


 主演俳優はもちろんよかった。特典映像では、御歳を召されていた。残酷ですね。僕も死のカウントダウンは入っているような気がする。80歳で人間はほとんど死ぬし。残酷だ。


 でも、死を終わりとか、切れる、後がない、あの世と、冷たく切り離されたものという捉え方は、千の風みたいに古いかもしれない。良いイメージを描く権利はありそうだ。そうしたいと望む。


 土の上のタンポポをスコップで掘って抜いて歩いた。それだけで、30分以上かかった。早起きして草取りできればいいが。週2では、維持は無理だ。毎日の継続が必要。と痛感した。実行できるか怪しい。9:30に寝て、5:30起床を目指したいところです。
 そうなると夜がコンパクトになる。ギュウギュウ詰め。できるかあ~??~??。

ペットボトル入れができた。

今、夜作っていたペットボトル入れができた。
ポケットティッシュケースはこの間作った。

布は全部ダイソーで手に入れた。
写真のバックはアイロン台。



○ちくちく和小物、松下順子、青春出版社、2011

 bookoffで中古入手。その前に図書館で借りていた。

f:id:kurage0147130:20080101000108j:plain





 今日は美術館に行きたいと思っていたけれど、風邪で行く気になれず部屋にいた。部屋の掃除をした。ドリンク剤を飲んだ。
生協へ行き、布と豚肉を買った。トン汁つくった。掃除機をかけ、夜、ペットボトル入れを作った。



生協への帰り、近所の凸凹斜面を、ママチャリでマウンテンバイクのように走った。久しぶりにダートの走りをした。こういうの好きで、たまにやる。気分は良かった。面白かった。

5/15 Mon

15 Mon

 昨日

○13歳からの頭がよくなるコツ大全


を昨日、図書館で読んでいて、『能動性』という言葉が浮かんだ。


 僕は後ろ向きで、受動的に何でも関わっているし、そうやってきた。けれど昨日の読書は、働きかけ、積極的に、理解しよう、覚えよう、と能動的にやる方法が書いてあり、自分にもそういう能力がありそうだと感じた。




 昨日の織りでは、上手くなろう、とするだけでどうしたらいいか思いつき、端の処理を丁寧にやった。すごく良くなったと自分では思った。最初の時の織りに向かう感覚、初心に戻った感じだった。最近はマンネリ化して雑だった。 



 このように、どうしようと能動的にちょっと思うだけで改善できた。勉強でもできるはずだと思い、家で英語をちょっとやって、中学生向きの辞書を読んだりして見た。覚えるところまでまだいかない。その辺はこの本と関わったり、工夫が必要だ。時間も僕はかかる。辞書を読むというだけでも変化だった。ちょっとずつできそうな気がする。





princeの愛のペガサス(prince), Controversy を聞いている。コントラバシィーは物凄いと感じた。今日は音に感応している。
 最近歩いていても、景色の色とか、フォルムに感じている。景色を追っかけて味わってをやる余裕のある時もある。


 今日は2014年に買って読んでいなかったファッション誌を見た。すごく面白かった。形、質感、バリエーション、これをめくっていたら一日かかるのではと思った。Quotation 2015 spring summer. 


 まだまだ受動的ではあるけれど、ちょっとずつ展開したらいいなあと思う。

14 Sun /13/12/11/ガンボ

14 Sun

 作業所では、昨日の織り教室の自分が嫌な奴だったので、他にいいやり方はないかを思った。カウンセリングで赤黒いものがあったので、これを感じることが、意識し続けることが脱出ではないかと思った。
 この赤黒い抑圧は、少しでも意識できたら、後は逃げを許さず、常に向き合い続けないとこちらが滅びる危険なパイだとわかっている。

 抑圧30年前、20歳の時、僕は出したけれど、あの時もずらすことは許されなかった。こうなった以上引き返すことも、横へ行くこともできずひたすら進むだけしかない、あの時を思って浮かんだ。




・弱さの思想

 最後の章は非常に面白い、読んでいて充実している。楽しい。少し賢くなったと錯覚する。バカな自分が見える。周りをバカに感じるのは、自分から逃げているからだ。僕は逃げ出すのが得意で、苦しくなると逃げようとする。

 統合失調の抑圧で負けているし、作業所へ作業に行くと言うことでも負けている。僕は何重にも負けを背負って、担って、まみれている。負けの重荷に打ちひしがれる。負ける以外にやりようがない。本を読んで出口があるというより、どんな負けをしているか、自分の負けの状態をわかるために読んでいるようなものだ。(他の本たちのことも入ってのこと)

 赤黒い抑圧。男・性の解離(?かいり?:正しい使い方か?僕はアホだ)。だから、赤黒いのは性と関係あると言えると思っている。単純に関係性をくっつけた。



・ この本、弱さの思想、負けについても書いてある。それを読んでの上の内容になっている。通貨についても、単一の通貨だから統制できる。地域の通貨とかを含め、多様性(負けている / 単一、中央集中が勝者)があると、おもしろい、ローカリゼーションの見方が必要だと。グローバリゼーションではなく。

 物語も、地方出身者が中央に出て出世する、という神話が成り立たなくなっている。若者は地方を志向し、山に自分の居場所を見つけようとしたりする方向になりつつある。本にあることをずっとここは書いてきたが、神話だと絶望するかない。勝者は3位くらいまでで、その他は皆敗者になるので。


 この最後の章は面白く、頭がよくなった気分に浸れる、絶好の優越と言いたいところだけれど、さっきも書いたように負けを意識させられる。絶対負けの自分を愛するしかない、寂しい自分が見えてくる。負けを抱きしめる、たそがれを抱きしめる、が本の言葉だったが。


 出口のない負けの自分をどうするか、突破できないまでも、負けながら中和するというか、乗り越える方法はないかと、本でも言いたくて対談しているのだと思う。(僕の理解は違っているか?)




n



太極拳が教えてくれた人生の宝物 フランソワ・デュボワ

終章 これからの旅 p221~

 この本が、山にこもって、降りてから悟ったというか見えてきたという内容らしいので、その悟りから読もうとした。読み終わった。(終章だけ)

 非常に率直でオープンで明朗な文章だった。そして充実した時間だった。あっという間に読み切った。(終章だけ)



太極拳に学ぶ 身体操作の知恵 笠尾楊柳 

 こちらも読みだした。ちょっとずつ学びたい。まだ始まったばかりで何のことやら。





○新・作庭記 丸山健二


は、自分は文学をやっているが周りは違うという意見のように理解した。自分は皆とは違うと。その論の持って行き方には納得できない。

 自分の文章も大したことはないとは書けないらしい。作家だからか。そこを守って周りを否定するから変な意見に見えた。自分を守るなら周りは否定しない方がいいと、僕は感じた。作家先生なので僕の戯け(たわけ)は通らないだろうが。





引用:p24・25:モネについて語っている箇所:


~草木のひとつひとつが命を持って、様々な悪条件と闘いながら懸命に生きているということを~


~我々人間もまた、いつ踏みしだかれるかわかったものではない、逃げ場などどこにも見つけられない、ともあれ生きるしかない、極めて危うい存在であるという原点を忘れないことが、本物の美にめぐり合える基本中の基本なのだ。




引用者:kurage0147130:
「素晴らしい文章の箇所。ぜひとも引用したく載っけた。」




○弱さの思想
  第3章 弱さの思想を育てよう

に入ってから少しおもしろくなりだした。ゴリラは強いが闘わないらしい。戦わないために強くて、胸をバンバン叩くらしい。

13 Sat
 
 今日の織り教室は、嫌な奴として存在しているらしかった。自分でもそういう存在なのを感じた。周りの態度も冷たかったし、僕もあたたかい気持ちになれなかった。




 個として存在しているようになってきているのを、歩いている感覚で感じた。




 このブログの特徴が、ダラダラと冴えない、鬱写した日常を描くという性格なのでこれからどうなのだろうという不安をちょっと感じる。

 今までは良くなるという明確な目標があったが、実際によくなってきて、でも日常は鬱々としてスパッといかない煩悶を抱えるというダラダラした内容で、どこへ向かっていくのか明確ではない。モチベーションがはっきりしない。目標や到達点が定まらない。



不明朗なブログという特徴を持ちつつある。



僕自身がいやな奴として存在しているわけだし。好きで嫌な奴をやっているわけではないが、なぜかそういう役回りを今日の織り教室では担(にな)っていた。



・明日は母の日なので、ジャワカレー中辛で作った。










12 Fri

 今日の作業所は、相変わらずnuno-zoriの達人の無視は続くが、ちょっと昨日から感触違ってきた。

 テーラーSGも否定っぽい態度でいるが、彼らの無視は底意地の悪いものではない。悪意があるなら切り捨てればいいけれど、彼らは僕がどう出るか読んでいる。こちらの動向を窺いながらの無視なのだ。完全無視の否定とも違う。

 僕がどう出るか見られている。僕はこれらの無視をどう踏むか任されているともいえる。彼らを否定するのは回答としては誤りだ。
 いい機会、成長する試練だと捉えている。ちょっと苦しく、かなりしんどい時もある。がしかし、森田正馬の事実本位だと、僕が作業所に通えていることで、仕事をできていることで僕は報われている。友達づくりを志向しているわけではない。欲しいならこちらからコンタクトを取ればいい。今は無理だが。
 作業できているのだから、友達作りの部分はカットしてもいい。この辺は昨日も書いた。




☆ そして今日最大の収穫は、自分自身への執着もカットしていい。どういうことかと。
 
 僕は自分の動向とか、どうしたいとか、こう対応してほしいとか。友達が向こうからきてほしいとか。女ができればいいとか。自分への自分自身への執着、期待が多すぎる。この変なこだわりを、このnuno-zoriの達人の無視による機会をもってカットしていいい。いい機会ととらえる方法がある。自分への過大な期待は捨てた方がいい。もっと絞り込んでいい。事実本位の考え方はこれを実現してくれる。

 
 できれば作業も、もう少し上達を目指せればいいが。どうもダラダラと続く作業にしてしまっている。上達するためにどうしよう、こうしようと試行錯誤するように作戦を練られたらいいのだが。この、のんべんだらりんの状態はあまりよくない。作業に創意工夫をたくさん持ちこんでもいい。できると思うんだ。考えない、やらないが、ダラダラを生んでいる、と思う。


 僕のブログを読んでいて思うと思うのですが、自分への執着が核となってきたけれど、それを捨てて、自分をも捨てるような、変な執着を脱げられればいいとは思う。難しいが。





・めだか7匹追加した。ホームセンターで購入。これで腹を膨らませたメスの産卵が期待できると思うがどうか。病気のように腹を膨らませていたので改善してほしい。小さい水槽が、11匹のメダカで賑(にぎ)やかになった。



 森田療法は少しずつでいいから読んでいきたいな。僕にはすごくいいと思うんだ。





m




追記:


○現代に生きる森田正馬のことば① 悩みには意味がある

p89  どうしなければならぬという主義がいけない

ここを読んで、僕のキーワードというやり方がそもそも間違っているという指摘を受けた。

ペニスがくっ付いた男という 頭の片隅に置いてもいいけれど、とらわれてはいけないらしい。僕は穴の中に落ちている状態みたいだ。こういうやり方は臨機応変に欠け、はからいという点から見ても、苦しいときは苦しくてよく、違うように感じようとするのは間違いらしい。

 このあたりを読んで、改善する方向にしていきたい。



2017年5月11日(木)


 アクセス・読んでいただきありがとうございます。


 今日も作業所は、nuno-zoriの達人は無視だった。ちょっとつらく感じた時もあったけれど、○自分で心を手当てする方法 の第3者のカメラで見る、祈る(こちらはあまり反応がよくなかった)で状況を捉え直し、乗り切った。


 本のやり方で思ったのは、nuno-zoriの達人が無視しているというのは小さいことだ。この作業所に皆が集い作業するという奇蹟に感謝しなけれならない。すごいことだと。このすごいことに僕は毎日来れているのだから、とてもいいことだ。



 そして森田療法の事実本位(⇔気分本位)の考え方。前にも書いたけれど、作業所に来れていると言うことだけで満足していい。目的を達した。友達はなくてもいい。それは諦めてもいい。皆に好かれなくてもいい。そこはカットしてもいい。
僕は作業を上達して、少しでも上手くなれば目的は達している。事実本位を満たしている。この考え方は、あれもこれもと欲張るのを防ぎ、自分を際限なく認められたいというのをカットできる利点があると思う。今日も作業所に行くことができた。事実本位で合格している。





・ペニスがくっ付いている男、

このキーワードが今日のお題だった。これで行った。ペニスをくっつけていると、世間の風当たりはだいぶ少なくなった気がする。まだいろいろ風は吹いてくるけれど、だいぶ楽に過ごした。自分の持ち物に凸がなれば、抑圧も終わるのかもしれない。自分の持ち物になるように、間を挟みながら意識を集中させる時期を持とうとした。




○13歳からの頭がよくなるコツ大全

 の暗記を図書館で読んでいます。試していませんが読んでいてすごくいいです。記憶力が悪いという言い訳はしないでいきたいです。





○弱さの思想

 は理想の学校の話とか出た。実際に日本にあるらしいが、今はあまり興味がなくなった。うらやましいが、普通学校でもいいな、もう終わったが(歳をとり過ぎた)。話題で出た、学校批判も面白くなかった。軍隊と学校が同じだ、みたいな話も新しいとは思えなかった。また面白い話題も出て来るでしょう。








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 アクセスを見ています。

 カウンセリングの先生にも言われましたが、女服を着ていると言ったら、ゲイなのですかと聞かれた。
 ゲイではありません。と答えた。何故こんなことを書くかというと、ゲイとというとアクセスが落ちるのかと思い、こんなことを書いている。僕にとって性別は、自分の心とリンクするものだ。心は女が欲しいを志向する。でも、男という確証はない。性を抑圧しているから。

 なんか面倒くさくなってきた。ゲイだと思ってアクセスが落ちたのならそれでもいい。誰も読まなくなっても僕は続ける。僕は僕を維持するために書く。

女服に興味はある。それが僕だ。女服も着る。着たいからだ。


嫌われようと自分以外ではありえない。以下でも以上でもない。

僕はアクセスを気にする。


でも、そのために僕は存在していない。一番優先するのは、性別うんぬんより、心に忠実かどうかだ。僕はやりたいようにやりたい。女服を着たいから買った。性別うんぬんではなく、気持ちの持ち方だ。俺は、縮こまっているけれど、いつまでも縮こまっていたいとは思わない。世間の尺度は大嫌いだ。できる範囲ではやりたいようにやりたい。それが望みだ。


スカートも履いたことがある。履きたかったからだ。スースーしたぞ。世間の風当たりは強かった。


今回もそれか。嫌われても俺は俺だ。誰も読まなくなったら、毎日マス野郎としてやっていくしかない。寂しいけれど。ここはトーンダウンしておこう。


2017年5月10日(水)



・メダカの水槽を掃除した。

・土を少し掘り起こして、アジサイの茎を切って(アジサイは株の外側の茎が倒れてそこで根を出す。だから外側の茎は切らないと株が大きくなっていく。と理解している)大きくならないように予防した。ミミズ一匹しか見なかった。楽しくないなと思いながら行った。


・カウンセリング:

 先生の咳から始まった。待合所で、先生の咳が聞こえてきた。挨拶して、カウンセリングが始まって、経過のワープロ用紙を見てもらった。おちんちんの話とか書いていた。身体の抑圧に治療で触れて行って、赤黒のソフトボールくらいのものがあるという確認になった。会話を試みたけれど反応せず。打ち切りへ。


 その後の先生とのフリートークで、僕のオチンチン話には、凸に対する乖離があるという話しになった。先生はそうは思っていなかったみたい。僕の凸は、自分のものという確証がなく、宙に浮いている、自分とも親和性がない。

先生はこのフリートークまで凸を自慢か何かと思っていたらしかった。ちょっと齟齬(そご)があった。


 父の話になって、僕から見て、父は僕に対して凸を見せびらかして優位を示したが、実際は僕と同じではないかと話した。父は助平なシーンになるとテレビを回す。興味はあるけれどオープンではない。そういう気持ちを認めていないらしい。それで僕から見て、凸に対して僕と同じではないかと話した。


 先生は、凸と会話する、どうだいみたいに大事に扱うのが必要ではないかと仰った。また、僕の良くしようとする姿勢はいいね、と話された。ここはリップサービスかなと思ったけれど、確かに長所として認めていい。


 そして先生自身が、両手が自分の手ではないように感じられる時間が訪れるらしい。頻繁なのかどうかわからないけれど、それで手と会話したりさすったりしているらしい。この話は自分の欠点ばかり話していたので親近感を持った。


 目立った展開はなかったけれど、凸とのつきあいはどうなるのだろうと思った。





・終わって食事に行った。前から行きたかった、



DIXIE ROUX アメリカ南部料理の店




に出かけけた。


ガンボ、サラダコーヒー付き


を頼んだ。


 昔の基礎英語でさんざんガンボを聞いたけれど、食べたことがないので想像できなかった。雪辱を果たした。スパイシーなカレーのようなものだと思った。魚介類がけっこうあって満足した。真ん中に白米があって、周りにスープ状のガンボが盛ってあった。味も好みだった。今度は、豆料理の、何とかを食べたい。

 店やでコーヒーを飲んだのは、25年ぶりくらいだ。(寂しい生活を送ってきました)

 おいしい食事、御馳走様でした。



 明日から過酷だったとしても、思い出があるから頑張れると言えるようでいたい。(食事体験のこと)
 食事後、凸の抑圧、過酷になりそうな予感がした。不安材料。カウンセリング、1か月後に予約を入れた。




・動物団体:

 メールでのやり取りで、僕の不作法からか、あまりウェルカムではなかった。
 登録していただきました。日にちも決まりました。24日スタートです。

 何も始まっていないので、何とも言えない。遠いのと、男で、50歳、障がい者、というのでからか、僕だからか、不審がられたように感じられた。実績作りをしないといけない。できるだけのことはしたい。過酷なのかなとは感じた。






○新・作庭記 丸山健二文藝春秋、2009(中古で時間をかけて、だいぶ前に購入、今日から読みだした)


 最初読んでいて、歯に衣着せぬ言い方に、笑って4ページ読んだ。そのうちずっと続く。これは違うなと思いだした。この人の本は、図書館で5冊くらい読んでいる。親和を持っている。p22まで読んでの感想は、喧嘩だと思った。殴り合いの素手の喧嘩を吹っかけている。そういう印象を持った。僕はこの人の書き方好きだから手放さないけれど、中古に売りとばした人は嫌いだったのかもしれない。


 かなり率直に、開けっぴろげに、言いたい放題、書いている。気持ちはいい。僕は内向しているから、嫌われるタイプかな。この人のすべてが好きだ、といまのところ思える。世間に阿(おもね)るところがなく、うらやましい。言いたいことも書いている。作家だから、ことば豊富に、正確に、細かく書いてある。このような文章うらやましい。もっと早く読めばよかったのか。今が時期だろう。

9 Tue /8/7/6/ターニングポイントからの実践へ。


9 Tue

○自分で心を手当てする方法 第6章 何もうまくいかないとき -失敗・挫折

p258 ステレオタイプを克服する

 で、前から気になっていた女性服を買おうと思い、買った。

 XXLという男だとLサイズに相当するのにした。

 最初着たら違和感があったけれど、今回鏡に映ったのを見たら、似合ってるじゃんと思った。

 化粧も前に試したけれど、それは性に合わなかった。女性服は結構いけるかもしれない。990円だった。僕の時は。

www.uniqlo.com




2017年5月9日(火)


 今日も、「オヤジ(お父さんから格下げ、オヤジだと対等か少し下に見られるから都合がいい)と同じオチンチンがついていて、格好よく、強く逞しい男だよ」を頭のなかで繰り返した。自己肯定感を無理やり、無から生じさせようという作戦を展開中。たぶん的を得ている。がしかし、

 盛り下がって恐縮ですが、僕の座席がありません。また移動になってしまいました。
作業所で苦労されている方の席が今日は空いていたので、そこが今日の居場所に割り振られた。自分の席がないという、移動が頻繁なのでそのことにボスを恨みたくなった。頭のなかでゴチャゴチャやっていた。

しばらくたって、



○自分で心を手当てする方法、


の本を思い出して、ボスの健康を祈った。その次に、この部屋の僕を含めた状況を第3者のカメラで見るという切り替えを行った。そしたらちっぽけに思え、たいしたことないなと思え、頭を完全に切り替えられた。


 そしたら、そしたら(餓鬼のように使っています)、作業に集中して、ここ最近では集中できた方の部類に入る没頭ができた。
帰りに、僕が間借りしている席の人の座席が壊れていたので、スタッフに報告して怪我がないようにした。そういうことまでできる余裕ができた。Thanks 作業所のみんな。


 いい話ではないので、続きがあって、交通機関でも否定の咳が待ち受けていた。咳は何の効果もないので、取り合わないで読書を開始した。ずっと続いていたけれど、当然のように反応しないことにした。女性は下りて行かれました。攻撃したら蹴飛ばそうとは思って警戒はしていた。しつこいやつもいるから。読書は完了しました。





○弱さの思想



 今日読んだところは、宅老所で、介護施設みたいなとこらしい。違うところは、老人、子ども、スタッフ、家族、集まってくる人達がゴッチャになって、分け隔てなくというか、一緒くたになって繰り広げる。死も誕生もあり、明るみになっていて、役割もあり、老人ファンと称する子ども(?本当にそう書いてあったか?)もいて、平等に扱われない。ばあちゃん・じいちゃんが好かれない人もいて、無理に平等にというふうにはしないらしい。あるがままというやつだろうと想像する。

金かけなくても人間の求め、行くべき、心が求める場所はあるんですね。僕は行ってみたい。


 明日は、カウンセリングと動物団体面接がある。出かけるぞい。











8Mon(key(board))

2017年5月8日(月)

 

・ 今日は交通機関、作業所どこでも出歩いていた間はエンドレスで、「お父さんと同じようにオチンチンがついていて、格好よく強い男だよ」(「僕は完全でパーフェクトだよ」・こちらはあまり使わなかった)と繰り返し続けた。一日ずっと使った。



 自分の肯定感のなさを穴埋めするように、繰り返し心の中、頭のなかで呪文を唱えるように繰り返した。これだけくり返せば、そのうち自分のものになるかもしれない。嘘から出た真になることだってあるだろう。






 ○弱さの思想


は、ホスピスの死んでいく子供の与えてくれるもの、残された家族の課題を、イギリスだったかの病院の対応で語られていた。残された家族への対応も手厚いんですね。
 もう一つ読んだのは、障がい者の病院を中心に作られる街。弱さを中心にすると暖かい町になるらしい。オランダでの話だったと思った。
日本では、ダウン症の子供に絵を教える先生の話。ダウン症の子供は例外がないくらい絵がうまいらしい。すごくポジティブな絵を描くそう。この子らを中心にした街を作る構想があるらしい。実際に進んでいるとか。


こういう話を読むのは、弱さを忌避するのではなく、積極的に見て行こうとするのに役立つ気がする。脳天気な気もするが。僕はいつだって脳天気でやってきた。




・ お父さんと同じように、というのが、味噌。父は僕を否定ないしは拒絶してきたけれど、僕の側は父を厄介払いにしたくない。僕の中の父をきちんと育てたい。自我の安定のためにも。だから、父と同じようにオチンチンがある男。というのが大事だ。










7 Sun

 自分が不利な気がしたり、暇があると心の中で、おちんちんあって男の子だね、すごいね とか、僕は完全だね、僕は宝物だね みたいに心の中で唱えていた。

本が届いて、

○男の子の育て方、諸富祥彦、

p22

引用:


 「マサオくんのこと、大好きよ」

 「ケンちゃんは、ママの宝物」

 「カズくんのこと、大切」

(p189)

 「さとる君、オチンチンがあっていいね。かっこいいよ」

 「それって、男の子のパワーのしるしなんだよ。お父さんにも同じのついてるでしょ?」

(引用者:kurage0147130:)


 出ていました。あまり、会話例題は出ていません。あまり使える気がしません。だからせっかくなので引用しました。
 これらのことばは大事だと思う。自分の心に言ってやりたい。



リコーダーを吹いた。自分の心に愛しているよと唱えながら吹いた。この方が上手く吹こうとするより良いような気がする。

ギターも、レディオヘッドに合わせて、楽器ごっこをして適当な音で合わせて弾いてみた。ごっこ遊びは何にもならないと思ってきたけれど、いまはそうでもない。何か大事な気がする。本物バンドに合わせて遊ぶのはちょっと大事におもう。




 
 ○弱さの思想

 これを続きを読みだした。宣伝しながら全部読めなかった。僕が人間として今より弱かったので、話についていけなかった。今回はついていける。

 原発予定地、祝島の話は面白かった。太陽に拝む方向に原発があるのは許せんとか、島の旅館では電気代を節約したり、食器を洗う・残飯処理を自分でやって豚の餌にしたりする、などの話もあった。老人は狭い田畑を守って働いて病気になりづらかったり、病気になっても隣の人が料理を作って助けてくれたり、金かけて介護しなくても、自分たちで立って歩いている、自立している。強者の論理ではない、自分たちのスタンスで、古いスタンスで周回遅れなのに、一歩先を行っている。





 ○英語を使いこなすための実践的学習法/田中茂範/大修館書店/2016

を図書館で読んでいて、もうすぐ1回目の読みが終わりそう。会話は完璧な文を作ってから話すのではなく、話を継いでいけばいいのだから肩ひじ張らないで、つなぎ語を入れたり、間違っても会話だから当然だとか、意思の疎通をきちんと図るとか・間違いをただし理解し合う、などの話すルールにのっとって会話を成立させようとする心得みたいなもののレクチャーがあった。刺激的です。覚えて使うまで行かないけれど、なんか、僕には向いていそうだなと思った。





 それから、暗記の話で、

 ○13歳からの頭がよくなるコツ大全

で、記憶力に自信がないという消極的なのはまったく意味がないと。それより自信を持っていた方がよほど得があると。だから、僕も自信がないというのをやめようと思う。14桁の数字の羅列を、本のやり方で覚えられたし。曲がりに曲がって時間をかけてできた。

 英語の勉強は、ちょこっとやっている。スクリーンプレイ、初級もやってみたい。中級のプラダを着た悪魔は、難しい表現が多くて挫折している。 

 

↑/7

↓/6


amazon佐藤優を検索していて
○ひらめき教室 「弱者」のための仕事論 (集英社新書)  自分の弱点を認めた人は強い(他の著者が書いている) が出ていて、

この手があったかと思った。僕は、核がない、ブレる。自己肯定感という強さがない。ならばこれを逆手にとり、自己肯定感がない、揺れを武器に使えないか? みたいな戦法はどうか。弱者関連の本はチェックしておいた方がよさそうだ。強さがないからだめではなく、ならば弱さを武器にしてしまえ。と思いつき。


5/6 Sat

 今日はお休みです。あまり活動的ではなく、ダラダラしました。

 土の掘り返し、30分くらいを2回。ポケットティッシュカバーの手縫いを作りました。掃除機がけ。が主です。2001宇宙の旅、少しずつ見ています。通しで見るのは2回目です。齧ったことはあった。


 図書館、メダカ増やすのは、やらなかった。歌もやらなかった。日ハムを結構見た。これがダラダラした。コンサドーレ勝ち点3。



 一番言いたかったのは、僕には心に支えとなる核がない。すぐ揺れてしまう。それを下に書いたようなやり方で克服できないかと思っているけれど、他にいい方法がないだろうか。佐藤優のブレないなんとか、というのはどんな本なのだろう。心理学で核の作り方の本はないのだろうか?





2017年5月4日(木)

○はじめてのカウンセリング入門 下巻 ほんものの傾聴を学ぶ、諸富祥彦、誠信書房、2010(僕のは2015)

パートⅡ カウンセリングの三つのアプローチと理論
 レッスン9 カウンセリングの主な理論を大まかに知ろう
  1 第一のアプローチ(精神力動論的立場)
   †精神分析
     創始者フロイトについて
     リビドー発達論
      ③男根期―三~五歳ころ
p21

引用


 この時期の子どもには、「ぼく、おちんちん、ついてて、すごいねー。男の子は強いんだぞー」と男であることを受け入れるような言葉がけが大切です。

 女の子が「どうして、私には、おちんちんがないの?」といぶかしがったときには、「でもねー、女の子は赤ちゃんが産めるんだよー。赤ちゃん、かわいいよね。すごいねー」と女であることを受け入れるように、かかわっていきましょう。





引用者:kurage0147130:

 言葉かけの話はここしか出ませんが、ぶち当たったという感じです。この言葉と情報が欲しかった。これが僕が男になるために必要な言葉だと思った。これが情報だった。それで、諸富さんの本を検索して、



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これはアマゾンで目次を見て、情報だし、使えるし、戦略的で目標、伸ばすために必要と先行投資。声掛けを自分でした場合、どうやって伸ばすかに使えると思った。


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 自分に、愛しているよ、僕は宝物だよ、おちんちんついていてすごいねー。などの子どもへの声掛けをしていこうと思う。自分の心を子供から成長させる作戦。僕の成長していない部分を伸ばしたい。





「疲れない身体」をいっきに手に入れる本、藤本靖、講談社+α文庫、2016


の第4章 自分の軸のつくり方 の頭、胸、腹の司令塔を感じるために、意識を持つために、での身体へのタッチで感覚をつかむレッスンがあるけれど、これを毎朝、公共機関でやっている。これが自分の体とのコミュニケーション、自分が存在している、肉体としてあるという自己確認になっている。これが果たした役割は大きかったと思っている。まだ続けるけれど。


 これのいい感触を、今度は、自分の部分の子どもの心への声かけで、自分の心を育てていこうと思う。


 この本にはおへそセンサーもあった。これは忘れていたけれどめくってみて、使えるなあと思った。明日から実践しようっと。自分のおへそと相手のおへそが紐でつながっているとイメージすると、安心感が生まれコミュニケーションがよくなるそう。やってみよう。

ターニングポイントにしたい(自己支持)

2017年5月3日(水)


「ターニングポイントにしたい(自己支持)。」
「雑記(感想)」


○英語を使いこなすための実践的学習法/田中茂範/大修館書店/2016

を読んでいるけれど、実際やるとなると暗記力が必要になると思う。極端に暗記力の悪い僕がどうすれば英語をできるようになるか。僕が暗記を出来ないのには、性の問題、体験の質の問題が絡んでくると思う。抑圧しているから、体験が中途半端になっていると思う。




☆話はかわって、今日の主要問題:


 今日、新・唯一無二の奥さんが作業所に見えられた。僕はその方に会っている。2度ほど。でも、僕がこの状態だから面識というほどにはならない関係だった。僕から声をかければいいのに、その方に親しいわけでもないので、声をかけられない。無視されているように感じ寂しい気持ちになった。実際は僕からの声掛けができなかったというだけの話。


 この時の無視されている、という感覚、僕が存在しないに直結している。僕は父に自分の気持ちを無視され続けてきたと思う。母にも半分くらいは汲んでもらえなかったと思う。


 僕は、相手に無視された時の状況を振り返ると、自分が存在しないと感じた。正常に人を想定すると、正常人は無視されても自分の気持ちが存在し、自分の気持ちを拠(よ)り所(どころ)としてそのままいられると思う。でも、自己の感覚が少ない僕は、無視されたと思うと(普段の擦れ違いの無視は関係しない・知人の無視が問題になっている)、自分自体が否定されたような存在しないと感じてしまう。




 この時、僕に起こっていることは、

1 自分の感覚がなくなる=自己感がゼロ、マイナスに振れる。疎外感へとつながる。

2 相手の存在を巨大化してみる。無視する相手は大きく、自分は存在ゼロに思う。

3 相手を自己を否定する脅威と感じ、自分は迫害される受け身の被害者の役になる。

4 同じ内容が続いているけれど、巨人と小人の感覚を持っている。




☆☆ 想定される克服は、相手が無視しても自分が無くならなければいい。自分の感じ方は残ればいい。相手は無視した。僕はそれに関係なく相手を大事に思っている、その自分の側の大事な感覚を拠り所とできればいい。僕は相手が無視して、自分が無くなってしまう。自分の感覚をずっと持ち続けることができればいいのに。


 ボスに裂き織りを否定されても、僕の側としてはやっていきたいし、上達したい、うまくなりたいという気持ちを拠り所として大きく持ち続けることができればいいのに。

 勉強が続かないのも、うまくいかなくても、自分としてはこうしたいという気持ちが大きく存在させ続けられれば感触は違ってくるように思うけれど。


☆☆☆


 他者や状況の違いのなかでも、自分の気持ちを大きく持ち続けられるようになりたい。相手の気持ちも大事だけれど、自分の気持ちを大事に、尊重して、大きく、自己による支持で宝物(たからもの)にできればいい。

僕は相手が否定すると、自己はなくなる。そうではなく、他者が否定しても、自分の気持ちを大事に宝物として自己による絶大な支持を与えればいいのではないのか。僕は相手が否定すると、自分の気持ちを小さく扱い、否定して扱い、否定を反芻(はんすう・繰り返し)している気がする。


これでは自信は生まれないよ。自分で自分を絶大に支持してやらないと。この辺、物凄い内容かもしれない(僕にとってだけの気がするが)。自分を自分で支持できたら、世界は180度、見え方が違っていると思うけれど、どうか。

02 Tue /01 Mon /30/29/労働者の余暇

追記:そういや、

○英語を使いこなすための実践的学習法/田中茂範/大修館書店/2016

を図書館で読んでいるよ。文法は、表現方法のバリエーションを作る骨格みたいなものと感じた。

 自分で文を作るとき、この表現のためにどの文法でいくか選択肢がたくさんあると言い替えができる、そのための文法。知識教養ではなく。実際に使うための本だから読んでいて楽しい。

 ちょっと硬い本なので、苦手な人はいると思うけれど、僕はこれを5回は読んで血肉にしたい。

 


・あと、

○カウンセリングとは何か 上巻 諸富祥彦、誠信書房、2010
 
を読んでいました。交通機関で。あまり内容のない本です。下巻からが本論らしい。

悪口ではなく、この上巻は下巻へ続くためのガイダンス。カウンセリングを受けていて、どういうことが展開されいるのかあらためて分かった。

 自己探索をし、心を観察し、カウンセラーのもと心を再解釈・新たな見方をし直して、心を統合して成長させていくプロセス。そのようなものらしい。(本の定義と違う・僕の理解)

 読んでいてとてもいい時間を過ごした。下巻にも期待している。




02 Tue

 seesaaaブログのほうがメインです。こちらはサブ。実際に本をやってみて、今回は成果が出た。

 なんか、鍛えるために毎日があり、鍛練を施し、練り上げ、いかなる状況下でも反応できるための合宿というか訓練というか、そのような気がする、というかそのようになってしまう。

 
 まえに、LEDルーペを着物ほどきのために買ったけれど、それを使っていたら、スタッフが金を出してくれた。お買い上げ頂いた。買ってもらう格好となった。

すごく節約している作業所なのに、僕は高価なものを解体のために出費させてしまった。僕の話題は盛り上がり、槍玉になり、格好の肴になっただろうと想像できる(スタッフの間で)


 毎日しんどい。愚痴をこぼしておきました。明日からまた何とか毎日を回していこうと思う。

 僕はなんだかんだ言って恵まれています。そこは感謝しています。ありがとうございます。

 神様にも頭を下げます。よろしくお願いします。

 では、また、懲りずに読んでくれることを期待しています。ありがとうございます。



L






こちらで活動しました。

kurage0147130-2.seesaa.net

 
5/1 Mon 

 作業所で、nuno-zoriの達人に無視されている。会ったときからそうだった。
 それを変えるつもりはない。でも、ずっと続くと嫌にもなる。

 最初のうちは、相手の責任でやっているのだからと相手に返していたけれど、ずっと一緒にいて、隣の人にだけ話しかけて、話がずっと続いていく。

 自分でどうしたらいいかわからない。嫌になっていく。ダメージを感じる。相手の態度を変えるつもりはない。僕は、どう反応したらいいのだ。

 好きでないから僕には話しかけないのだと思う。最初からそうだったし。それは相手の責任。自分で心を手当てする方法、5章 悩みが頭から離れないとき -とらわれ、抑うつ的反芻 で対処したらいいのか? 読んでみよう。





L




4/30 Sun

英語少し、ティッシュ入れ手縫い少し、リコーダー少しをした。リンパストレッチもやっておいた。

カウンセラーの先生向け文:

・ 交通機関や図書館で咳をされて否定されても、さほど気にならなくなりました。

 相手に返しています。相手が判断し感じ決めた行動を、否定したり拒絶するのではなく、相手の行動として相手側に責任を戻す、相手側の源(みなもと)の行為として帰着(きちゃく)させることにしました。成功していると思います。


k


29 Sat

・ 昨日の神社は、賽銭を投げるとき、他の人はいくらぐらい投げるかなと、ちゃんと見ていた。10円1円が多かった。小市民ぶりを発揮した。



・ 今日は、雑務をこなした。それは、昨日インターネットで Ramon De Zubiaurreというスペインの画家を検索して(写真を貼った人)、その人の本を中古でスペイン・アマゾンで買おうという所まで進んでしまった。

 自分でやっていて何やっているんだとなった。2時間以上使った。何にもしないで買うことばかり考えて。僕の本集めも、読まないで買ってきた。



・ 人間にとって重要なのは、その時々で精一杯やること。その時やらなければ、あとで、と言うことは成立しない。過去は変えられない。今やらなければ、やらなかったということだ。



・ そして、森田正馬の気分本位という考え方。気分が乗らないからやらないではなく、事実本位の考え方で、これこれをしたから目的を達して今日はいい日だったという判断をする考え方。

 僕は気分本位しかやってこなかった。交通機関でも、最低の日でもないのに、今日は気分が乗らないから本を読まないと、読まないことが多い。




・ それで今日は、土起こし、図書館読書、水槽掃除、カレー料理、掃除機、本棚の整理、掃除機、風呂(4日ぶりくらい・僕は汚い奴だよ~ん)と、雑務は皆やった。やれることは皆やった。家で読書はしなかった、できなかった。事実本位でやってみた。


・ 土起こしをしていて、セミのサナギを見つけた。グーグル写真でチェックして確認した。かわいい奴だった。埋め戻しておいた。茶色い、筒のようなねじれたカプセルみたいなもの。

 ミミズはたくさんいた。つくしは引っ張って取って歩いた。繁茂されたら困るが、キノコのように胞子(キノコ?シダ?)みたいなのを飛ばしてすごかった。




・ 女性に凸したから、男だとは思わない。
 
 昨日は、英語をやった。事実本位をおもいだしてやってみた。気分が乗らないという言い訳はしなかった。


k

・ 道立近代美術館で、大原美術館展Ⅱに行ってきた。

いちばんよかったのは、

https://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/dr000/auc0301/users/9/3/4/7/sakatoko_1997-img463x600-1485256815xi7yyv21852.jpg

写真で見ると良さがわからないけれど、漁師の人の顔と佇(たたず)まいが僕には迫ってきた。奥さんも印象深かった。上のほうの家並みも実物は絵の世界の家並みとして存在していた。写真で見て、見えるところも多く、僕はなにを見てきたのかな? とも思った。

ラモン・デ・スビアウレ 作者 、オンダロアの港というタイトル。

 児島虎次郎という方も初めて知った。よかった。明るくて。乳を飲ませる日本人を描いた絵もよかった。

 ヴラマンクの黒い塗り方の絵は、今日も好きだったなあ。アンリ・ル・シダネルの夕暮の小卓は、夕方のちょっと暗い、背景とテーブルの余韻があって、人物がない分奥行きがあった。

 河井寛次郎の陶器は、手作りのこじんまりしているけれど引き締まり、そこにあるという存在感がよかった。かわいらしく小声で話しかけられる印象を持つ物だった。

 
・本郷新 札幌彫刻美術館は、アフリカの仮面と彫像展だった。独特の世界観がある、マイナーな展示だった。エネルギッシュが詰まった、前近代な、思いが込められた独特な造形が印象に残った。勉強していないので難しいことはわからない。

本郷新記念札幌彫刻美術館ホームページ
チラシの表面の写真があります。


・札幌宮の森美術館 森山大道 写真展

ブレ・ボケ 感性的な写真は古く感じられ、今は成立しない気がした。

 犬と網タイツ よりの写真は、光と陰、輪郭、質感、構図でできているのかなと思った。ディテールと質感が迫るような気がした。

 僕にとって写真は今はあまり感じない分野だなと思った。絵のほうがよかった。掛け軸も見たいな。

・ 北海道神宮へ行き、100円という巨額の金を投機して、頭を下げてきた。

 40年ぶりくらいの神社でのお参り。僕は自分としては一生懸命生きているつもりだけれど、あとは神頼み、神様に頭を下げてやっていくしかないので、頭(こうべ)を垂れてきた。特段祈ったわけではない。神様に頭を下げるのが目的だった。

 神様が僕の願いをかなえてくれるとは思っていない。人間の数はすごいから。それより、謙虚になりたかったかもしれない。人間、所詮、頭を下げる動物だ。最後はまかせるしかない。

 立派な社と、杉並木?の道を歩いてきた。境内も、広くて立派だった。独特の雰囲気だった。手も洗って参拝した。帽子は脱いだ。



・ 近代美で、労働者というタイトルの絵を見て、冴えない2人組の絵だった。僕自身の労働者という身分を見てしまった。一介の労働者、お針子さんですらない、解体業。50男。労働者の悲哀を思う。僕は一生懸命やっていきたい。